三十三間堂通し矢+法住寺大根焚き2025/1/12

三十三間堂通し矢

三十三間堂通し矢+法住寺大根焚き

三十三間堂通し矢と法住寺大根焚きのはしご情報を紹介しています。2020年1月12日には三十三間堂で通し矢(大的大会)・楊枝のお加持が行われ、三十三間堂のすぐ東側の法住寺で大根焚きが行われます。ちなみに三十三間堂と法住寺は通りを挟んですぐ隣になります。(詳細下記参照)

【三十三間堂通し矢+法住寺大根焚き 日程時間(要確認)】
●三十三間堂の通し矢と法住寺の大根焚きは例年同日に行われています。また三十三間堂では同日に楊枝のお加持も行われています。

【三十三間堂通し矢 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
最寄り駅・バス停・・・博物館・三十三間堂前(徒歩すぐ)、東山七条(徒歩すぐ)

アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から三十三間堂は100系統(D1乗り場)、110系統(D1乗り場)、206系統(D2乗り場)、208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸からは207系統
*河原町丸太町からは202系統
路線・時刻表・運賃チェック

*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は七条駅(徒歩約5分)

法住寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)

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【三十三間堂通し矢 歴史・簡単概要】
三十三間堂通し矢(とおしや)・大的大会(おおまとたいかい)は江戸時代に各藩の弓術家が本堂の軒下で矢を射った大矢数(おおやかず)に因んだ行事です。大矢数は一昼夜に何本射通したかを競ったものだそうです。なお新成人による通し矢は1951年(昭和26年)から行われています。
通し矢では約120メートルある本堂の西側に射場が設置されます。通し矢では成人を迎えた男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。大的は新成人の男女が1メートル、称号者が79センチです。ただ決勝では新成人の男女が79センチ、称号者が50センチと小さくなります。ちなみに決勝は射た2本の矢が全て的に的中した皆中者で行われます。
三十三間堂通し矢

【法住寺大根焚き 歴史・簡単概要】
法住寺大根焚き(だいこんだき)・無病息災大根焚きでは本尊・身代不動明王に祈願した大根焚きを振舞い、1年の無病息災を祈願します。
大根焚きでは大根焚きを振舞うだけでなく、不動堂で無病息災を祈願する護摩供(ごまく)が行われます。また大根焚きでは牛王宝印(ごおうほういん)の加持も行われます。僧侶が参拝者の額に宝印を押し、厄除けの護符を授けます。なお大根焚きでは阿弥陀堂に安置されている後白河法皇像(御前立像)が特別開扉されます。後白河法皇像は仏教において最も丁寧な礼拝である五体投地(ごたいとうち)を表すとも言われている両手・両足の裏が上を向いて座っている珍しい姿をしています。
法住寺大根焚き

【三十三間堂楊枝のお加持 歴史・簡単概要】
三十三間堂楊枝のお加持(やなぎのおかじ)はインド伝来の修法で、平安時代から行われている最重の法要です。楊枝のお加持では聖樹(霊木)とされる楊枝(やなぎ)で、本尊・千手観音坐像(国宝)前で7日間祈祷した法水(浄水)を参拝者に注ぎ、諸病を除きます。楊枝のお加持は第77代・後白河天皇の故事から頭痛に特に効くと言われています。
楊枝のお加持には次のような故事が残されています。頭痛持ちの後白河天皇は前世が熊野の修行僧・蓮華坊で、その髑髏が熊野・岩田川に沈み、髑髏を貫いて柳が生え、風に揺られ、柳が髑髏に当たることが頭痛の原因になっており、髑髏を引き上げて観音像の頭に納めて祀り、柳を三十三間堂の棟木に使うと後白河天皇の頭痛は解消され、楊枝のお加持の由来にもなったとも言われています。
三十三間堂楊枝のお加持

【三十三間堂 歴史・簡単概要】
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)・蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)は平安時代の988年(永延2年)に太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が造営した私邸があった場所とも言われています。その後989年(永祚元年)に為光が妻と第65代・花山天皇の女御だった娘の菩提を弔う為に法住寺(ほうじゅうじ)を創建したが、1032年(長元5年)の火災によって焼失しました。1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)を営み、三十三間堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、離宮・法住寺殿の一画に創建されたのが起源です。ただ1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が本堂(三十三間堂)のみを再建しました。
*参考・・・京都・三十三間堂(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ

【法住寺 歴史・簡単概要】
法住寺(ほうじゅうじ)は989年(永祚元年)に太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が妻と第65代・花山天皇の女御だった娘・藤原し子(弘徽殿(こきでんの)の女御)の菩提を弔う為に創建したのが起源と言われています。985年(寛和元年)6月に妻、7月に娘が相次いで亡くなったそうです。その後1032年(長元5年)の火災によって焼失しました。1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)を営み、1160年(永暦元年)に新日吉神社、1163年(長寛元年)に三十三間堂(蓮華王院)が創建され、1176年(安元2年)に後白河上皇の女御・建春門院(平滋子(たいらのしげこ))が亡くなると建春門院の御陵として法華堂が建立されました。しかし1183年(寿永2年)に木曽義仲によって焼き討ちされ、1192年(建久3年)に後白河上皇が亡くなると新たに法華堂が建立され、上皇の御陵に定められました。その後三十三間堂の本坊で、天台三門跡に数えられた妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)の院家として、法住寺陵と妙法院歴代門跡法親王の墓を守ってきました。
*参考・・・法住寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

【三十三間堂通し矢+法住寺大根焚き 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
通し矢では拝観料が無料になります。
京都・三十三間堂(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報

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