大覚寺(覚勝院(塔頭)・祇王寺)
大覚寺
大覚寺を観光するなら歴史的に関係が深い大覚寺の塔頭である覚勝院(かくしょういん)や共通拝観券がある祇王寺(ぎおうじ)も一緒に回るのもいいかもしれません。ただ祇王寺は大覚寺から少し距離がある為、拝観には注意が必要になります。なお大覚寺では宵弘法(よいこうぼう)などが行われ、行事も一緒に見るのもいいかもしれません。
【大覚寺・覚勝院・祇王寺 基本情報】
大覚寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
大覚寺の塔頭・覚勝院(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
祇王寺(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報
【大覚寺・覚勝院・祇王寺 マップ・地図】
【大覚寺 歴史・簡単概要】
大覚寺(だいかくじ)・旧嵯峨御所大本山大覚寺(きゅうさがごしょだいほんざんだいかくじ)は平安時代初期に第52代・嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院があった場所です。嵯峨院では真言宗の宗祖である弘法大師・空海が嵯峨天皇の信任を得て、空海が自ら刻んだと言われている五大明王を安置する堂を建立して修法を行いました。876年(貞観18年)に嵯峨天皇の皇女で、第53代・淳和天皇の皇后・正子内親王(まさこないしんのう)が淳和天皇の第2皇子・恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう・恒貞親王)を開山として離宮を寺院に改めて門跡寺院になり、第56代・清和天皇から寺号・大覚寺を賜ったと言われています。鎌倉時代に後宇多法皇(第91代・後宇多天皇)が伽藍を建立して再興し、中興の祖・大覚寺殿とも称され、また院政を行ったことから嵯峨御所(さがごしょ)とも言われるようになりました。後宇多法皇と父・亀山法皇(第90代・亀山天皇)の皇統は後宇多法皇が大覚寺に住したことから大覚寺統(南朝)と称されるようになり、1392年(元中9年・明徳3年)の南北朝媾和では正寝殿で南朝の第99代・後亀山天皇から北朝の第100代・後小松天皇に三種の神器が引き継がれました。なお大覚寺は生け花発祥の寺で、いけばな嵯峨御流(さがごりゅう)の総司所(家元)です
大覚寺は真言宗大覚寺派大本山の寺院です。
*参考・・・京都・大覚寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【覚勝院 歴史・簡単概要】
覚勝院(かくしょういん)は正平年間に摂政・関白の子息が出家し、法皇の法流を継承する院家の住坊として、建立されました。1711年(宝永8年)江戸幕府6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)の寄進により、本堂が建てられました。なお大覚寺は平安時代初期に嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院があり、真言宗の開祖である弘法大師・空海が信任を得て、五大明王を安置する堂を建てて修法を行っていました。その後876年(貞観18年)正子内親王が離宮を寺に改めました。
覚勝院は真言宗大覚寺派大覚寺の塔頭です。
*参考・・・覚勝院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【祇王寺 歴史・簡単概要】
祇王寺(ぎおうじ)は浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の門弟・良鎮(りょうちん)が創建した往生院が起源と言われています。また平安時代に平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が出家して入寺したとも言われています。その後衰退し、1868年(明治元年)には廃寺になり、旧地頭・大覚寺(だいかくじ)が残された墓や仏像を管理し、真言宗に改めました。なお大覚寺47世門跡・楠玉諦師(くすのきぎょくたい )が再建計画を立て、富岡鉄斎らの尽力により、1895年(明治28年)に元京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)が別荘一棟を寄付し、寺院に改められて再興されました。
祇王寺は真言宗大覚寺派の尼寺です。
*参考・・・祇王寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【大覚寺宵弘法 歴史・簡単概要】
大覚寺宵弘法(よいこうぼう)・嵯峨の送り火は真言宗の開祖である弘法大師・空海が除災招福を祈念して始めたのが起源とも言われています。ちなみに空海は774年(宝亀5年)讃岐(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。空海は讃岐から15歳で京都に上京し、804年(延暦23年)に遣唐使として唐に渡り、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になったり、日本最初の私立学校・綜芸種智院を創立したりしました。その後空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。なお宵弘法は毎年空海のご縁日である21日の前夜である8月20日に行われています。
【大覚寺 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
大覚寺見どころ(正寝殿・大沢池など)