天龍寺の見所ランキング-修学旅行・観光で見学必見

天龍寺見どころ

天龍寺の見所は庭園・法堂・雲龍図・大方丈・小方丈です。

天龍寺の見所ランキングを紹介します。見所は1位が夢窓疎石が作庭した曹源池庭園などの庭園(特別名勝・史跡)、2位が雲居庵禅堂を移築して再建された法堂・天井の雲龍図「八方睨みの龍」、3位が大方丈・小方丈です。なお国宝・重要文化財など修学旅行・観光で見るべき名所を紹介しています。(詳細下記参照)

天龍寺見どころ一覧

【夢窓疎石が作庭し、650年以上の歴史がある曹源池庭園(特別名勝・史跡)】

曹源池庭園は南北朝時代(1337年~1392年)に夢窓疎石が作庭し、650年以上の歴史があると言われています。曹源池庭園は夢窓疎石が最晩年に作庭しました。曹源池庭園は天龍寺最大の名所です。

  • 曹源池庭園の概略-曹源池庭園は大方丈・小方丈から構成された方丈(ほうじょう)に面し、古くから紅葉の名所とされている嵐山(あらしやま)・亀山(かめやま)を借景に曹源池(心字池(しんじいけ))を中心とした面積約1,200坪(約4,000平方メートル)の借景式庭園・池泉回遊式庭園です。曹源池庭園は嵐山・亀山などを借景としていることから実際の面積以上の広さを感じます。曹源池庭園には龍門の滝(りゅうもんのたき)に見立てた2枚の巨岩や鯉魚石(りぎょせき)・三尊石(さんぞんせき)・坐禅石(ざぜんいし)などが配置されています。天龍寺はカエデ・ハナミズキ・サクラ・ツツジ・ドウダンツツジ・イロハモミジなどが分布する京都を代表する紅葉名所で、曹源池庭園は紅葉が見ごろを迎える11月中旬頃頃から12月上旬頃が一番美しく、その美しさは圧巻とも言われています。ちなみに曹源池庭園では紅葉が見ごろを迎える時期に早朝参拝できるように拝観時間が早められ、朝早く訪れるのもいいかもしれません。曹源池庭園は作庭当時の面影を残しているとも言われ、その歴史を感じることもできます。なお天龍寺では江戸時代(1603年~1868年)末期までに兵火を含む8度の大火に見舞われ、伽藍の大部分が明治時代(1868年~1912年)以降に再建された為、歴史を感じられるのは庭園だけかもしれません。
  • 曹源池庭園の歴史-曹源池庭園は南北朝時代(1573年~1603年)の1351年(観応2年・正平6年)に亡くなった夢窓国師・夢窓疎石が最晩年に作庭したと言われています。夢窓国師・夢窓疎石は庭園作庭の名手とされ、苔寺(こけでら)の庭園(特別名勝)や鎌倉市・瑞泉寺(ずいせんじ)庭園(名勝)なども作庭しました。庭園は平安時代(794年~1185年)中期に作庭された第60代・醍醐天皇の皇子・前中書王兼明親王(さきのちゅうしょおうかねあきらしんのう)の山荘にあった池泉を改修したとも言われています。なお龍門の滝は夢窓国師・夢窓疎石が考案したとも、南宋(中国)からの渡来僧で、鎌倉建長寺(けんちょうじ)開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が考案したとも言われています。
  • 曹源池庭園の重要人物-夢窓疎石は1275年(建治元年)に伊勢国に生まれました。幼少時に出家し、1283年(弘安6年)に山梨・平塩寺(へいえんじ)の空阿(くうあ)に師事して天台宗(てんだいしゅう)・真言宗(しんごんしゅう)などを学びました。1292年(正応5年)に奈良・東大寺(とうだいじ)で受戒し、建仁寺(けんにんじ)の無隠円範(むいんえんぱん)に禅宗(ぜんしゅう)を学びました。その後鎌倉に赴き、奥州などを遊歴し、1325年 (正中2年) に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(だいごてんのう)の勅によって南禅寺(なんぜんじ)の住持になりました。その後室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の帰依を受け、天龍寺(てんりゅうじ)の開山になりました。夢窓疎石は1351年(観応2年・正平6年)10月20日に亡くなりました。夢窓疎石は歴代天皇から夢窓国師(むそうこくし)・正覚国師(しょうがくこくし)・心宗国師(しんしゅうこくし)、死後に普済国師(ふさいこくし)・玄猷国師(げんにゅうこくし)・仏統国師(ぶっとうこくし)・大円国師(だいえんこくし)を賜り、七朝帝師(しちちょうていし)と称されました。
  • 曹源池庭園の由来-曹源池庭園・曹源池の名称は正しい源から流れ出る真実の禅を意味する「曹源一滴」に由来しています。庭園からは「曹源一滴(そうげんのいってき)」と刻んだ石碑が出土しました。なお曹源池は普明閣(ふみょうかく)・絶唱谿(ぜっしょうけい)・霊庇廟(れいひびょう)・拈華嶺(ねんげれい)・渡月橋(とげつきょう)・三級巌(さんきゅうがん)・万松洞(ばんしょうどう)・龍門亭(りゅうもんてい)・ 亀頂塔(きちょう)とともに1346年(興国7年・貞和2年)に夢窓国師・夢窓疎石が選んだ天龍寺十境に数えられています。
  • 曹源池庭園の豆知識-曹源池庭園は読本作者・俳人である秋里離島(あきさとりとう)による「都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)・1799年(寛政11年)」に描かれています。庭園はかつて現在よりも広大だったと言われています。
スポンサーリンク(Sponsor Link)

【雲居庵禅堂を前身とし、150年以上の歴史がある法堂】

曹源池庭園は江戸時代(1603年~1868年)後期に建立された雲居庵禅堂を前身とし、150年以上の歴史があります。天井に描かれた雲龍図「八方睨みの龍」は100年以上の歴史があります。

  • 法堂の概略-法堂には1997年(平成9年)に天龍寺開山・夢窓国師650年遠諱記念事業として、京都市上京区出身で、「現代の琳派(りんぱ)」とも言われた日本画家・加山又造(かやままたぞう)が描いた雲龍図(うんりゅうず)「八方睨みの龍(はっぽうにらみのりゅう)」があります。「八方睨みの龍」は縦10.6メートル・横12.6メートルの天井に厚さ3センチのヒノキ板159枚を張り、漆を塗った上に白土を塗り、直径9メートルの二重円の中に描かれています。雲龍図は仏の使いである雲龍が悟りの心を表す二重円(結界)の中にあることを表しているとも言われています。「八方睨みの龍」は法堂の天井を見上げるとその大きさや迫力を実感することができます。ちなみに「八方睨みの龍」は土曜日・日曜日・祝日や春・夏・秋の特別参拝(毎日公開)の際に公開されています。(要確認)なお一般的に雲龍図には龍が法(仏法の教え)の雨を降らすとも言われることや龍神が水を司ることから防火の意味が込められているとも言われています。
  • 法堂の歴史-法堂は江戸時代(1603年~1868年)末期の1864年(元治元年)の禁門の変(きんもんのへん・蛤御門の変(はまぐりごもんのへん))によって焼失し、明治時代(1868年~1912年)に管長・峨山禅師が江戸時代(1603年~1868年)後期に建立された雲居庵禅堂(うんごあんぜんどう・選佛場(せんぶつじょう))を移して再建されました。法堂はかつて南北朝時代(1337年~1392年)の1340年(延元5年・暦応3年)に仏殿などとともに建立が開始され、1342年(興国3年・暦応5年)に上棟され、1343年(興国4年・康永2年)頃に完成したとも言われています。その後天龍寺では大火だけでも南北朝時代の1358年(延文3年・正平13年)・1367年(貞治6年・正平22年)・1373年(応安6年・文中2年)・1380年(康暦2年・天授6年)・室町時代(1336年~1573年)の1447年(文安4年)・1468年(応仁2年)・江戸時代の1815年(文化12年)・幕末の1864年(元治元年)の8回も見舞われ、法堂も焼失と再建を繰り返しました。
  • 法堂の構造-法堂は寄棟造(よせむねづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
  • 法堂の仏像-法堂は須弥壇(しゅみだん)に釈迦如来(しゃかにょらい)坐像・文殊菩薩(もんじゅぼさつ)坐像・普賢菩薩(ふげんぼさつ)坐像からなる釈迦三尊(しゃかさんぞん)像、後の壇に光厳上皇(北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう))の位牌・夢窓疎石像・足利尊氏像を安置しています。
  • 法堂の豆知識-法堂にはかつて明治時代(1868年~1912年)に日本画家・鈴木松年(すずきしょうねん)が描いた雲龍図がありました。雲龍図は一部が保存され、例年2月に大方丈で公開されています。(要確認)

【明治時代に再建され、100年以上の歴史がある大方丈・小方丈】

大方丈は明治時代(1868年~1912年)に再建され、100年以上の歴史があります。小方丈は大正時代(1912年~1926年)に再建され、100年近い歴史があります。

  • 大方丈・小方丈の概略-方丈は曹源池庭園に面し、大方丈と小方丈(書院)に分かれています。大方丈は正面約30メートル・奥行き約20メートルで、正面と背面に幅広い広縁(ひろえん)が巡らせたれ、その外に落縁(おちえん)も巡らせた山内最大の建物です。曹源池庭園を眺めているとその大きさを感じることができます。ちなみに大方丈は表3室・裏3室の6室に分かれ、日本画家・物外道人(もつがいどうじん)が描いた雲龍の襖絵(ふすまえ)が東西を仕切っています。小方丈は法要や来客の接待などに使われています。曹源池庭園だけに目を奪われないで、方丈もじっくり拝観するのがおあすすめです。なお方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院では住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。
  • 大方丈・小方丈の歴史-大方丈は1899年(明治32年)に再建され、小方丈は1924年(大正13年)に再建されました。ちなみに方丈はかつて南北朝時代(1337年~1392年)の1343年(興国4年・康永2年)頃に完成したとも言われています。その後天龍寺では大火だけでも8回目も見舞われ、方丈も焼失と再建を繰り返したとも言われています。
  • 大方丈・小方丈の構造-大方丈は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺です。大方丈は正面・背面に幅広い広縁(ひろえん)が巡らせたれ、その外に落縁(おちえん)も巡らせたれています。
  • 大方丈・小方丈の仏像-大方丈は中央の48畳敷きの室中に本尊・釈迦如来(しゃかにょらい)坐像(重要文化財)を安置しています。釈迦如来坐像は木造の漆箔だったが、現在は素地になっています。なお釈迦如来坐像は南北朝時代(1337年~1392年)の1339年(延元4年・暦応2年)創建の天龍寺よりも歴史が古く、平安時代(794年~1185年)後期に造仏され、8度の大火でも焼失を免れ、山内に安置されている最古の仏像と言われています。

【節分に天龍寺七福神めぐりが行われる塔頭寺院】

塔頭寺院は天龍寺山内に建立され、例年節分に天龍寺七福神めぐりが行われています。宝厳院は紅葉名所とされ、例年紅葉シーズンにライトアップが行われています。

  • 塔頭寺院の概略-塔頭(たっちゅう)寺院は山内に三秀院(さんしゅういん)・弘源寺(こうげんじ)・慈済院(じさいいん)・松厳寺(しょうげんじ)・永明院(ようめいいん)・寿寧院(じゅねいいん)・妙智院(みょうちいん)などが建立されています。松巌寺・慈済院・弘源寺は幕末の焼失を免れ、室町時代(1336年~1573年)から江戸時代(1603年~1868年)の様式を残しています。ちなみに世界遺産である苔寺(こけでら・西芳寺(さいほうじ))はかつて天龍寺の境外塔頭でした。天龍寺と三秀院(大黒天(だいこくてん))・弘源寺(毘沙門天(びしゃもんてん))・慈済院(弁財天(べんざいてん))・松厳寺(福禄寿(ふくろくじゅ))・永明院(恵比寿(えびす))・寿寧院(不動明王(ふどうみょうおう))・妙智院(宝徳稲荷(ほうとくいなり))では例年節分に天龍寺七福神めぐりが行われ、1年の幸福を祈願します。また天龍寺では例年節分に節分会(せつぶんえ)が行われています。
  • 三秀院の概略-三秀院は南北朝時代(1337年~1392年)の1363年(正平18年・貞治2年)に臨済宗(りんざいしゅう)の僧・不遷法序(ふせんほうじょ)が創建しました。
  • 弘源寺の概略-弘源寺は室町時代(1336年~1573年)中期の1429年(永享元年)に室町幕府管領・細川持之(ほそかわもちゆき)が夢窓疎石の法孫・玉岫禅師(ぎょくしゅうえいしゅ)を招聘して創建しました。
  • 慈済院の概略-慈済院は南北朝時代(1337年~1392年)の1363年(正平18年・貞治2年)に第2世・無極志玄(むごくしげん)が創建しました。
  • 松厳寺の概略-松厳寺は南北朝時代(1337年~1392年)の1353年(正平8年・文和2年)に公家・四辻善成(よつつじよしなり)が臨済宗の僧・晦谷祖曇(まいこくそどん)を開山として創建しました。
  • 永明院の概略-永明院は室町時代(1336年~1573年)中期の1413年(応永20年)に臨済宗の僧・太岳周祟(たいがくしゅうそう)が創建しました。
  • 寿寧院の概略-寿寧院は南北朝時代(1337年~1392年)の貞治年間(1362年~1367年)に臨済宗の僧・龍湫周沢(りゅうしゅうしゅうたく)が創建しました。
  • 妙智院の概略-妙智院は室町時代(1336年~1573年)に臨済宗の僧・竺雲等連(じくうんとうれん)が堺の貿易商・雲栖軒奇峯道夏居士の外護によって創建しました。

【天龍寺 備考】
*参考・・・天龍寺(見所・アクセス・・・)ホームページ

関連記事

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る