清水寺舌切茶屋・清水寺見どころ

清水寺舌切茶屋

●清水寺舌切茶屋は清水の舞台(本堂)が建立されている錦雲渓(きんうんけい)に建っています。舌切茶屋の名称は清水寺の塔頭(たちゅう)・成就院(じょうじゅいん)の執事・近藤正慎(こんどうしょうしん)が安政の大獄(あんせいのたいごく)に連座して捕縛され、自ら舌を噛み切り、六角獄舎(ろっかくごくしゃ)の壁に頭を打ち付けて自害したことに由来しています。清水寺舌切茶屋は清水寺が近藤正慎の功績に報いる為、遺族・家族に開設権を与えました。
近藤正慎は江戸時代後期の1816年(文化13年)2月に丹波国桑田郡亀山藩山本村中条(京都府亀岡市篠町山本中条)で栗山義重として生まれました。成就院で出家し、尊皇攘夷派(そんのうじょういは)の僧で、兄弟僧である成就院住職・月照(げっしょう)の影響を受け、尊皇攘夷運動に身を投ずました。幕末の安政の大獄に連座して捕縛され、月照の行方について拷問を受けたが、白状することなく、1858年(安政5年)11月28日に自ら舌を噛み切り、六角獄舎の壁に頭を打ち付けて43歳で自害しました。明治維新後に従五位に列せられました。
月照は江戸時代後期の1813年(文化10年)に大坂の町医者の長男として讃岐吉原(香川県善通寺市)で生まれました。1827年(文政10年)に叔父・蔵海の伝手で成就院に入り、1835年(天保6年)に住職になりました。尊皇攘夷運動に傾倒し、公家・西郷隆盛(さいごうたかもり)らと親交を持ちました。幕末に安政の大獄が始まると西郷隆盛とともに京都を脱出して薩摩国に渡ったが、薩摩藩が月照の保護を拒否したことから1858年(安政5年)12月20日に錦江湾で西郷隆盛とともに入水自殺しました。ただ西郷隆盛は一命を取り留めました。ちなみに弟・信海は兄・月照の死後に成就院の住職になったが、その後捕縛され、江戸で獄死しました。なお清水寺では月照の命日である11月16日に落葉忌の法要を行っています。
安政の大獄は1858年(安政5年)に勅許を得ずに日米修好通商条約の調印と徳川家茂(徳川慶福)第14代将軍継嗣の決定を断行した大老・井伊直弼(いいなおすけ)が反対派の雄藩大名・公卿・幕臣・諸藩士らを弾圧した事件です。橋本左内(はしもとさない)・吉田松陰(よしだしょういん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らが処刑され、常陸水戸藩第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)、越前国福井藩16代藩主・松平慶永(まつだいらしゅんがく)らが処罰され、連座者が100名を超しました。安政の大獄後も尊皇攘夷運動が激しくなり、1860年(安政7年)3月24日の桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で大老・井伊直弼が暗殺されました。
成就院(じょうじゅいん)は室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火で焼失した清水寺を再興した清水寺本願職・願阿上人(がんあしょうにん)の住房が起源です。その後成就院と名付けられて清水寺の塔頭(たちゅう)になり、伽藍の整備や財政の維持・管理などを担当しました。室町時代後期の1510年(永正7年)に第104代・後柏原天皇の勅願寺(ちょくがんじ)になったが、江戸時代前期の1629年(寛永6年)の火災で焼失しました。1639年(寛永16年)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の寄進で現在の建物が再建されました。
清水寺見どころ

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