醍醐寺三宝院表書院・醍醐寺見どころ(修学旅行・観光)

醍醐寺三宝院表書院

●醍醐寺三宝院表書院は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1954年(昭和29)3月20日に国宝に指定されました。
●醍醐寺三宝院表書院はかつて安土桃山時代の1598年(慶長3年)に関白・豊臣秀吉が行った醍醐の花見の際、奈良から移された能の楽屋が起源と言われています。その後三宝院に移され、増改築が行われたとも言われています。表書院は桃山時代の寝殿造(しんでんづくり)の様式を伝える建物と言われています。表書院は上段の間・中段の間・下段の間があり、縁側に勾欄(こうらん)が巡らせられ、西南隅に泉殿が増設されています。下段の間は畳を揚げると能舞台になり。揚舞台(あげぶたい)の間とも言われています。上段の間・中段の間は下段の間よりも一段高く、能・狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。上段の間には柳、中段の間には山野、下段の間には孔雀(くじゃく)と蘇鉄(そてつ)などが描かれた襖絵が飾られています。上段の間・中段の間は長谷川等伯(はせがわとうはく)一派、下段の間は石田幽汀(いしだゆうてい)が描いたといわれています。
醍醐の花見は安土桃山時代の1598年(慶長3年)3月15日(新暦の4月20日)に関白・豊臣秀吉が行いました。豊臣秀吉は同年8月18日(新暦の9月18日)に亡くなったことから最後の花見とも言われています。醍醐の花見では豊臣秀吉が豊臣政権の五奉行・前田玄以(まえだげんい)を奉行に任命し、近江(滋賀)・河内(大阪)・大和(奈良)・山城(京都)の畿内から約700本の桜の木を集め、標高約454メートルの醍醐山にある山道両側などに植え、醍醐寺の塔頭・三宝院(さんぼういん)の建物などを建てたり、三宝院庭園を造営したりしました。ちなみに豊臣秀吉は自ら下見の為に醍醐寺へ足繁く通い、三宝院庭園を自ら作庭したとも言われ、聚楽第(じゅらくてい)から天下の名石として名高い藤戸石(ふじといし) が移されました。醍醐の花見では豊臣秀吉を始め、豊臣秀頼・豊臣秀吉の正室である北政所・豊臣秀吉の側室である淀殿(西の丸殿)・松の丸殿・三の丸殿・加賀殿、そして前田利家と正室であるまつ(芳春院)など諸大名など約1,300人が参加しました。醍醐の花見は九州平定直後の1587年(天正15年)10月1日(新暦の11月1日)に行われた北野大茶湯と双璧を成す催し物として知られています。
能は狂言とともに平安時代に起こった猿楽(さるがく)を起源としています。能は室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の庇護により、観阿弥(かんあみ)と子・世阿弥(ぜあみ)親子が大成させました。能は演じる立方(たちかた)・声楽を謡う地謡方(じうたいかた)・器楽を奏でる囃子方(はやしかた)などで構成されています。
●醍醐寺三宝院表書院は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。泉殿は切妻造(きりづまづくり)の桟瓦葺、車寄は唐破風造(からはふづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
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