龍安寺見所ランキング-修学旅行・観光で見学必見
龍安寺見所ランキング-石庭・方丈・庭園・蹲踞「吾唯足知」
龍安寺の見所ランキングを紹介します。見所は1位が1499年(明応8年)頃に作庭された石庭(特別名勝・史跡)、2位が西源院の方丈を移築した方丈(重要文化財)、3位が名池に数えられた鏡容池を中心とする庭園(名勝)です。なお国宝・重要文化財など修学旅行・観光で見るべき名所を紹介しています。(詳細下記参照)
- 1位-戦国時代に作庭され、500年近い歴史がある石庭(特別名勝・史跡)
- 2位-江戸時代初期に建立され、400年以上の歴史がある方丈(重要文化財)
- 3位-平安時代に名池に数えられた鏡容池を中心とする庭園(名勝)
- 番外-徳川光圀が寄進し、300年以上の歴史がある蹲踞「吾唯足知」
【戦国時代に作庭され、500年近い歴史がある石庭(特別名勝・史跡)】
石庭は明確ではないが、方丈が再建された戦国時代(室町時代後期)の1499年(明応8年)頃に作庭されたとも言われ、500年近い歴史があると言われています。石庭は龍安寺最大の名所です。なお石庭は1924年(大正13年)に国の史跡・名勝、1954年(昭和29年)に国の特別名勝に指定されました。
- 見所概略-石庭は縦(南北)約10メートル・横(東西)約25メートルの油土塀(あぶらどべい)に囲まれた面積約75坪の枯山水(かれさんすい)式庭園です。油土塀は最大高さ50センチの差があり、目の錯覚(遠近法)によって実際の面積よりも広く見えると言われています。石庭は白砂を敷いて帚目(ほうきめ)を付け、一見無造作に15個の石が配置されています。15個の石はどこから眺めても必ず1個の石が他の石に隠れるように意図的に配置されていると言われています。ちなみに石庭は水平ではなく、東南の隅が低くて雨水などを排水しやすくなっています。石庭は作庭の意図に諸説があり、定かになっていません。石庭では石の配置の謎などを考えながら眺めると少しでも深く石庭を理解できるかもしれません。石庭は油土塀の裏に桜が植えられ、桜が見ごろを迎える時期(例年3月下旬頃~4月上旬頃)に一味違った石庭を眺めることができます。また紅葉が見ごろを迎える時期(例年11月下旬頃~12月上旬頃)も美しいと言われています。ちなみに桃山時代の1588年(天正16年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が前田利家(まえだとしいえ)らと洛北で鷹狩りを行った際に龍安寺を訪れ、方丈庭前の糸桜を見て、「時ならぬ 桜が枝に 降る雪は 花は遅しと 誘い来ぬらん」と詠みました。前田利家は「御狩り野に 降る白雪は 花に似て なお袖さむみ 春風のふく」と詠みました。
- 歴史ポイント-石庭は寺伝によると方丈が再建された戦国時代(室町時代後期)の1499年(明応8年)頃に中興の祖・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)などの禅僧によって作庭されたとも言われています。また龍安寺が中興された応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))後に作庭されたとも言われています。石庭には「小太郎・■二郎」と刻まれた石があり、作庭に関係した人物とも言われています。
- 別名-石庭の石は七石(五石と二石)・五石(三石と二石)・三石の3群に分けられ、「七五三の庭」とも言われます。また石庭は中国の説話「癸辛雑識・虎の子渡し」から「虎の子渡しの庭」とも言われています。なお奇数は古来から陽数とされ、おめでたい意味があると言われています。
- 岩質-15個の石は比較的大きな4つの石が龍安寺の裏山などに見られる堆積岩(たいせきがん)の一種であるチャート、油土塀ぎわの細長い石など2つの石が丹波(たんば)あたりの山石、その他の9つの石が三波川変成帯(さんばがわへんせいたい)で見られる緑色片岩(りょくしょくへんがん)です。15個の石は織田信長(おだのぶなが)の祖父で、織田弾正忠家の当主・織田信定(おだのぶさだ)が運んだとも言われています。
【江戸時代初期に建立され、400年以上の歴史がある方丈(重要文化財)】
方丈は江戸時代初期に建立された妙心寺の塔頭・西源院の方丈を前身とし、400年以上の歴史があります。方丈に飾られていた襖絵は明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって散逸しました。なお方丈は1967年(昭和42年)6月15日に国の重要文化財に指定されました。
- 見所概略-方丈は石庭(特別名勝・史跡)前に建立されています。方丈にはかつて狩野派の絵師などが描いた襖絵90面があったが、明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)による困窮によって売却され、1953年(昭和28年)から5年掛けて南画家・皐月鶴翁(さつきほうげつ・皐月鶴年)が描いた「龍図(りゅうず)」・「金剛山図(こんごうさんず)」などが飾られています。方丈前には石庭が作庭されていることもあり、石庭に目を奪われ、方丈はあまりじっくり眺められていないかもしれません。「龍図」・「金剛山図」もじっくり眺めましょう。
- 歴史ポイント-方丈は江戸時代初期の1606年(慶長11年)に妙心寺の塔頭(たっちゅう)・西源院(せいげんいん)の方丈として建立され、1797年(寛政9年)の火災後に龍安寺に移されました。ちなみに西源院は室町幕府管領・細川勝元(ほそかわかつもと)が徳大寺家(だいとくじけ)から寺地を得て、清源庵(せいげんあん)を建て、その後移したのが起源とも言われています。その後江戸時代末期に妙心寺の塔頭・龍泉庵(りゅうせんあん)から旧牌堂が移築されて方丈に付け足されたが、1977年(昭和52年)に旧牌堂が撤去されました。なお方丈はかつて戦国時代(室町時代後期)の1499年(明応8年)に再建されたが、江戸時代後期の1797年(寛政9年)に焼失しました。
- 構造-方丈は入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
- 仏像-方丈は弥勒菩薩(みろくぼさつ)を安置しています。
- 襖絵-売却された襖絵は2010年(平成22年)に20面の「群仙図(ぐんせんず)」の内の4面と20面の「琴棋書画図(きんきしょがず)」の内の2面が龍安寺に戻り、2018年(平成30年)に上間(じょうかん)一の間にあった16面の「芭蕉図(ばしょうず)(狩野派または海北派)」の内の9面が龍安寺に戻りました。ちなみに米国のメトロポリタン美術館に襖絵8面、米国のシアトル美術館に襖絵4面が所蔵されています。
【平安時代に名池に数えられた鏡容池を中心とする庭園(名勝)】
庭園は鏡容池を中心とする池泉回遊式庭園です。鏡容池は潅がい用の溜池として造られ、京都三大池に数えられたと言われています。なお庭園は1955年(昭和30年)に国の名勝に指定されました。
- 見所概略-庭園は衣笠山(きぬがさやま)・朱山(しゅやま)を借景にし、境内の南側半分を占める鏡容池(きょうようち)を中心に弁天島(べんてんじま)・伏虎島(ふしとらじま)・無名の島などがある池泉回遊式庭園です。ちなみに鏡容池は東西約120メートル・南北約65メートルで、面積約2万6千平方メートルと言われています。庭園はかつて石庭よりも有名で、江戸時代後期の1780年(安永9年)の「都名所図会(みやこめいしょずえ)」に紹介されました。龍安寺では石庭だけでなく、庭園を眺めるのもおすすめです。なお庭園では春に桜、夏にスイレン(睡蓮)、秋にカエデ(楓)が見ごろを迎え、美しい光景を楽しむことができます。
- 歴史ポイント-鏡容池はかつて潅がい用の溜池として造られました。平安時代に名池に数えられ、貴族が舟を浮かべて遊んだそうです。鏡容池は京都三大池に数えられたとも言われています。なお鏡容池はオシドリ(鴛鴦)の名所だったそうです。
- 島-弁天島には桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が鏡容池に霊力があるとして弁財天(べんざいてん)を祀ったとも言われています。また無名の島には真田幸村(さなだゆきむら・真田信繁(さなだのぶしげ))の墓も建てられています。
【徳川光圀が寄進し、300年以上の歴史がある蹲踞「吾唯足知」】
蹲踞は水戸黄門(みとこうもん)と言われる徳川光圀が寄進し、300年以上の歴史があります。蹲踞はレプリカも制作されています。
- 見所概略-蹲踞は茶室・蔵六庵(ぞろくあん)の露地(ろじ)に置かれています。蹲踞は直径約55センチの石造の手水鉢(ちょうずばち)です。蹲踞には「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」と刻まれ、その意匠が特徴的です。中央の水穴である「口」を中心に上部で「吾」、下部で「足」、右側で「唯」、左側で「知」が表され、時計回りに読むと「吾唯足知」になります。ちなみに「吾唯足知」は仏教の開祖・お釈迦様(おしゃかさま)が入滅前に行った最後の説法の様子を記した「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう・仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっすいはつねはんりゃくせつきょうかいぎょう ))」の中の「知足の者は 賎(いや)しと雖(いえど)も富めり 不知足の者は 富めりと雖も賎し」から引用され、「欲望は際限ないから現状を満ち足りたものとする」という禅の格言を表しているそうです。蹲踞ではその意味や歴史も感じさせます。
- 歴史ポイント-蹲踞は常陸水戸藩2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに・水戸光圀)が歴史書「大日本史(全397巻・目録5巻)」を編纂する際に西源院本「太平記(たいへいき)」12冊を借り、お礼として寄進したと言われています。
- 重要人物-徳川光圀は1628年(寛永5年)に常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房(とくがわよりふさ)の三男として生まれました。父は正室がいなかたことから堕胎を命じたが、密かに生まれたと言われています。1632年(寛永9年)に水戸城に入城し、翌1633年(寛永10年)に世子に決定しました。ただ兄を差し置いて世子に決定したことから蛮行を行ったとも言われています。1636年(寛永13年)に元服し、江戸幕府3代将軍・徳川家光からの偏諱(へんき)を与えられて「光国」に改めました。1657年(明暦3年)に駒込邸に史局を設置し、歴史書「大日本史」の編纂作業に着手しました。1661年(寛文元年)に父が亡くなると2代藩主になりました。その後兄の長男・松平頼世(まつだいらよりよ)と次男・徳川綱條(とくがわつなえだ))を養子とし、頼世が亡くなったが、綱條が3代藩主になりました。1679年(延宝7年)頃に「光圀」に改め、1691年(元禄4年)に隠居所・西山荘(せいざんそう)に隠棲しました。徳川光圀は1701年(元禄13年)になくなりました。
【龍安寺 備考】
*参考・・・龍安寺(見所・アクセス・・・)ホームページ