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カテゴリー:祇園祭(京都)
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第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)と祇園祭
祇園祭は千年以上の歴史があり、その歴史の中で天皇(上皇・法皇)・将軍などが見物した記録が残されています。「法身院准后記」に「ツキ(築)山ニ御登アテ」と記され、後小松上皇が仙洞御所にある築山に登って山鉾を見物しました。 -

斎竹(いみだけ)・悪王子社・来迎院と祇園祭
祇園祭では7月15日に高橋町が四条麩屋町に斎竹を建て、7月17日に斎竹に注連縄が張られ、長刀鉾の稚児が注連縄を切ります。ただかつては八坂神社の摂社になった悪王子社が祀られていた四条東洞院に泉涌寺の塔頭・来迎院が建てていました。 -

1757年(宝暦7年)の「祇園会細記」と祇園祭
祇園祭は平安時代前期の869年(貞観11年)に始まり、時代の変遷や明治時代の新暦以降により、諸行事や日程が現在と異なっています。1757年(宝暦7年)に成立しました「祇園会細記」には過去の日程や諸行事が記されています。 -

1500年(明応9年)の祇園祭再興と祇園祭
祇園祭は1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱により、1500年(明応9年)までの33年間も中絶します。1500年(明応9年)に祇園祭が再興され、6月7日の前祭に鉾が1基・山が25基、6月14日の後祭に鉾がなく、山が10基巡行しました。 -

太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつな)と祇園祭
祇園祭は869年(貞観11年)に牛頭天王の祟りが原因とされたのが起源だが、877年(元慶元年)に藤原基経が邸宅を寄進して牛頭天王を祀る社壇を建立したと言われています。藤原基経は863年(貞観5年)の御霊会に天皇の勅によって遣わされました。 -

中原康富(なかはらのやすとみ)の「康富記」と祇園祭
祇園祭では山鉾巡行(前祭)が四条通・河原町通・御池通の順に巡行し、山鉾巡行(後祭)が御池通・河原町通・四条通の順に巡行しているが、以前は別のルートを巡行していました。中原康富の「康富記」では過去のルートを知ることができます。 -

馬長(うまおさ)・小舎人童(こどねりわらわ)と祇園祭
祇園祭では古くから神輿渡御や山鉾巡行が注目されたが、平安時代中期頃に馬長も注目される存在でした。馬長はかつて殿上人が天皇の命により、祇園祭に花を添える為、自分の小舎人童を美しく着飾って馬に乗せて奉仕させたものでした。 -

神道家・吉田兼倶編纂の「二十二社註式」と祇園祭
祇園祭は869年(貞観11年)に行われた祇園御霊会が起源とされ、970年(天禄元年)から毎年行われるようになりました。吉田兼倶編纂の「二十二社註式」に970年(天禄元年)から祇園祭が行われるようになったことが記されています。 -

猿楽師(さるがくし)・世阿弥(ぜあみ)と祇園祭
祇園祭では古くから神輿渡御と山鉾巡行が人気で、歴史上の有名人が見物した記録が残されています。三条公忠の「後愚昧記」には1378年(天授4年・永和4年)に猿楽師・世阿弥が足利義満と桟敷で鉾を見物したことが記されています。 -

本居宣長(もとおりのりなが)の「在京日記」と祇園祭
祇園祭では古くから神輿渡御や山鉾巡行が人気で、古文書・書物・屏風などに記録・絵などが残されています。また宵山も人気で、国学者・医師である本居宣長が記した「在京日記」1756年(宝暦6年)の条に記されています。 -

少将井御旅所(しょうしょういおたびしょ)と祇園祭
祇園祭ではかつて大政所神輿・八王子神輿が大政所御旅所、少将井神輿が少将井御旅所に渡御していました。少将井御旅所は「社家条々記録」によると1136年(保延2年)に冷泉東洞院の方四町の敷地が寄付されて成立されたと言われています。 -

狂言「鬮罪人(くじざいにん)」と祇園祭
祇園祭ではかつて山鉾は題材が固定化されておらず、毎年趣向を凝らして造り替えられていました。山鉾の草創期には人形ではなく、人が扮装して山鉾に乗っていたこともあります。その過程は狂言「鬮罪人」で知ることができます。














