安養寺宝塔・安養寺見どころ(修学旅行・観光)

安養寺宝塔

●安養寺宝塔は1902年(明治35年)7月31日に国の重要文化財に指定されました。
●安養寺宝塔は鎌倉時代後期(1275年~1332年)に建立されたと言われています。宝塔は慈円僧正塔(慈鎮の塔)とも言われています。宝塔は塔身に釈迦如来(しゃかにょらい)と多宝如来(たほうにょらい)の両如来が浮き彫りされています。
慈鎮和尚・慈円は1155年(久寿2年)に摂政関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)と藤原仲光(ふじわらのなかみつ)の女・加賀(かが)の子として生まれました。1165年(永万元年)に11歳で青蓮院(しょうれんいん)に入り、1167年(仁安2年)に第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)の第7皇子・覚快法親王(かくかいほっしんのう)のもとで出家して「道快」と名乗り、1178年(治承2年)に法性寺(ほっしょうじ)座主(ざす)に任ぜられ、1181年(養和元年)に名を「慈円」に改めました。同母兄で、摂政関白・九条兼実(くじょうかねざね)に庇護され、1192年(建久3年)に38歳で第62代天台座主(てんだいざす)になり、計4度(第62代・第65代・第69代・第71代)も天台座主を務めました。1203年(建仁3年)に大僧正(だいそうじょう)に任ぜられ、後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)の護持僧(ごじそう)になりました。ただ1221年(承久3年)の承久の乱(じょうきゅうのらん)の際、鎌倉幕府執権・北条義時(ほうじょうよしとき)討伐に挙兵した後鳥羽上皇とは立場を異にし、公武の協調を望んでいました。慈円は同母兄・九条兼実の孫・九条道家(くじょうみちいえ)の後見人を務め、九条道家の子・藤原頼経(ふじわらのよりつね)が鎌倉幕府の将軍として鎌倉に下向することを望んでいたと言われています。慈円は初代・神武天皇(じんむてんのう)から第84代・順徳天皇(じゅんとくてんのう)までの歴史と慈円の歴史観を記し、日本のあるべき姿を明らかにし、史論書として名高い「愚管抄(ぐかんしょう)・1220年(承久2年)頃成立」を著しました。また慈円は歌人としても知られ、私家集に「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」があり、勅撰和歌集「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)・鎌倉時代初期編纂」に僧侶・歌人である西行(さいぎょう)の94首に次ぐ、91首も収められています。ちなみに慈円は西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たが、和歌の心得がないと真言も得られないと言われ、和歌を稽古してから再び伝授を申し出たと言われています。「小倉百人一首」には「おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に すみぞめの袖」が選ばれています。なお慈鎮和尚・慈円は1225年(嘉禄元年)に亡くなりました。
●安養寺宝塔は高さ約3メートルの石造宝塔です。宝塔は花崗岩(かこうがん)製で、基礎が失われていることから平らな自然石が基礎になっています。ちなみに宝塔は自然石を除くと高さ約2.44メートルになります。
宝塔は仏塔の建築形式のひとつです。一般的に宝塔は円筒形の塔身に方形の屋根を架け、頂上に相輪(そうりん)を立てた一重塔です。宝塔は南インドの南天鉄塔に由来し、平安時代初期に密教とともに日本に伝わったと言われています。
安養寺

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