大徳寺曝凉展2019/10/13

大徳寺

大徳寺曝凉展(日程・時間・・・)を紹介しています。曝凉展は毎年10月の第2日曜日に行われています。曝凉展は通常非公開である大徳寺本坊で行われる虫干しの寺宝展です。曝凉展では絵や書などが虫干しされたり、江戸時代初期の狩野派の絵師・狩野探幽が描いた方丈(国宝)の襖絵(重要文化財)など約100点が一般に公開されます。(要確認)(詳細下記参照)

【大徳寺曝凉展2019 日程時間(要確認)】
大徳寺曝凉展2019は2019年(令和元年)10月13日(日曜日)9:00~15:00まで行われます。なお雨天の場合には中止になります。

【大徳寺曝凉展 アクセス・マップ地図】
場所・・・京都府京都市北区紫野大徳寺町53
最寄り駅・バス停・・・大徳寺前(徒歩すぐ)

市バスのアクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から大徳寺は101系統(B2乗り場)、205系統(B3乗り場)、206系統(A3乗り場)
*四条河原町からは12系統、205系統
*四条烏丸からは12系統
*河原町丸太町からは204系統、205系統
京都市バス・アクセスダイヤ京都バス・鉄道乗換案内システム「歩くまち京都」

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【大徳寺曝凉展 歴史・簡単概要】
大徳寺曝凉展(ばくりょうてん)は毎年10月の第2日曜日に行われています。曝凉展は通常非公開である大徳寺本坊で行われる虫干しの寺宝展です。ちなみに曝凉とは夏や秋などの天気がよく乾燥した日に風を通して虫やカビを防ぐものです。曝凉展では絵や書などが虫干しされたり、江戸時代初期の狩野派の絵師・狩野探幽(かのう たんゆう)が描いた方丈(国宝)の襖絵(重要文化財)など約100点が一般に公開されます。(要確認)
狩野探幽は1602年(慶長7年)に絵師・狩野永徳の次男である絵師・狩野孝信の長男として京都で生まれ、1617年(元和3年)に江戸幕府の御用絵師となり、江戸城・二条城・名古屋城や大徳寺・妙心寺などの寺院の障壁画を描き、1623年(元和9年)には鍛冶橋狩野派の祖となりました。
大徳寺は建物以外で絹本墨画淡彩観音図猿鶴図・絹本著色大燈国師像・虚堂智愚墨蹟・後醍醐天皇宸翰御置文などの国宝、四季松図狩野探幽筆・楊柳観音像・後醍醐天皇像・絹本著色運庵和尚像・絹本著色虚堂和尚像・絹本著色大応国師像・絹本著色大燈国師像などの重要文化財を有しています。
方丈・玄関は一休宗純の参徒で、京都の豪商・後藤益勝(ごとうますかつ)の寄進により、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建立されました。方丈は1635年(寛永12年)、玄関は翌1636年(寛永13年)に完成しました。方丈の計8室には絵師・狩野探幽が描いた襖絵(重要文化財)があります。

【大徳寺 歴史・簡単概要】
大徳寺(だいとくじ)は1315年(正和4年)に臨済宗の僧である大燈国師(だいとうこくし)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が赤松円心(あかまつえんしん)の帰依を受け、紫野に小堂・大徳庵を建立したのが起源とも言われています。その後1325年(正中2年)に花園上皇(第95代・花園天皇)が宗峰妙超に帰依し、持明院統(北朝)の祈願所にしました。しかし1453年(享徳2年)の火災や応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、1474年(文明6年)に大徳寺第48代住持になった一休さん(一休宗純)が再興しました。なお大徳寺では関白・豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行い、信長を弔う為に総見院を建立しました。また秀吉に重用されていた千利休は山門(金毛閣)に二階を増築し、雪駄を履いた利休の像を安置したことから秀吉の怒りを買って、自決の原因になったとも言われています。
大徳寺は臨済宗大徳寺派大本山です。
*参考・・・大徳寺(アクセス・歴史・・・)ホームページ大徳寺(アクセス・歴史・・・)wikipedia

【大徳寺曝凉展 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
大徳寺(アクセス・見どころ・・・)情報
大徳寺見どころ

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