俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)と嵐山
俳諧師・松尾芭蕉と嵐山
嵐山は鎌倉時代中期に後嵯峨上皇が奈良・吉野山から桜を移植すると桜名所になり、江戸時代(1603年~1868年)中期に俳諧師・松尾芭蕉が「花の山 二丁上がれば 大悲閣」と詠みました。松尾芭蕉は生涯で3度嵐山(嵯峨野)を訪れたと言われています。
【嵐山桜見ごろ(例年時期)・2024年開花満開予想】
嵐山の桜見ごろは例年3月下旬頃から4月上旬頃です。ただ桜の開花状況や見ごろ(満開)はその年の気候などによって多少前後することがあります。なお2025年1月9日、ウェザーニュースは京都嵐山で3月28日にソメイヨシノが開花すると予想しました。
嵐山桜見ごろ
【嵐山 歴史・簡単概要】
嵐山は淀川水系の一級河川・桂川に架かる渡月橋の西、京都府京都市西京区にある標高約382メートルの山です。嵐山は国の史跡・国の名勝に指定されています。また嵐山は「日本さくら名所100選」・「日本の紅葉の名所100選」にも選ばれています。嵐山は平安時代に貴族の別荘地で、古くから歌枕として多くの和歌などに詠まれる景勝地でした。なお嵐山と言う場合、山自体ではなく、桂川の右岸・嵐山と桂川の左岸・嵯峨野を含めたエリアを指し、京都を代表する観光地になっています。
【俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)】
嵐山は鎌倉時代(1185年~1333年)中期に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))が奈良・吉野山(よしのやま)から桜を移植すると桜名所になり、江戸時代(1603年~1868年)中期に俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)が「花の山 二丁上がれば 大悲閣」と詠みました。京都を代表する桜名所である標高約382メートルの嵐山には標高約105メートルの山中に大悲閣(だいひかく)と言われる千光寺(せんこうじ)が建立されており、松尾芭蕉は大堰川(おおいがわ・桂川)沿いから山道を登って大悲閣を訪れたのかもしれません。ちなみに嵐山は紅葉名所でもあり、大悲閣から眺める紅葉は美しいと言われています。作家・司馬遼太郎(しばりょうたろう)は俳句が「景観の大きさがよく表現されており、舟遊びでの花のある雰囲気をつくるべく努めていることがよくうかがえる」と評しました。
嵐山(嵯峨野)では江戸時代中期の1685年(貞享2年)から松尾芭蕉の弟子で、俳諧師・向井去来(むかいきょらい)が落柿舎(らくししゃ)を構えて住みました。1689年(元禄2年)に弟子・河合曽良(かわいそら)とともに「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉は秋頃に落柿舎を訪れ、12月24日に落柿舎で鉢叩きを聞きました。1691年(元禄4年)にも再び落柿舎を訪れ、4月18日から5月4日まで滞在し、「嵯峨日記(さがにっき)」を記しました。ちなみに「嵯峨日記」には愛宕神社(あたごじんじゃ)・野宮神社(ののみやじんじゃ)の祭礼・嵯峨祭(さがまつり)が記されています。その後5月4日に野沢凡兆宅に移り、向井去来・野沢凡兆とともに代表句集「猿蓑(さるおみ)」を編纂しました。「花の山 二丁上がれば 大悲閣」を詠んだ時期は明確ではないが、1691年(元禄4年)が有力とも言われています。そして松尾芭蕉は亡くなることとなる1694年(元禄7年)5月22日にも落柿舎を訪れました。
千光寺(大悲閣)は元々、嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)とも言われる清凉寺(せいりょうじ)の西方中院に建立され、天台宗の寺院だったと言われています。鎌倉時代に第88代・後嵯峨天皇の祈願寺だったが、その後衰退しました。江戸時代前期の1614年(慶長19年)に嵯峨の土倉業・角倉了以が二尊院の僧・道空了椿を中興開山として現在の場所に移し、大悲閣を建立しました。その後荒廃し、江戸時代後期の1808年(文化5年)に京都の豪商・風間八左衛門が角倉了以200年忌に再興し、日野黄檗宗・正明寺の末寺になりました。明治維新の際に大悲閣を除き、境内・山林・什宝などを失ったが、明治時代に寺地を拡張して順次諸堂が整備されました。なお千光寺は恵心僧都・源信作と言われる千手観音を安置しています。
●松尾芭蕉は1644年(寛永21年)に松尾与左衛門の次男として、伊賀国(三重県)に生まれました。1656年(明暦2年)に父が亡くなり、1662年(寛文2年)に藤堂家の料理人として仕え、藤堂良忠とともに俳諧師・北村季吟に俳諧を学びました。1662年(寛文2年)に詠んだ「春や来し 年や行けん 小晦日」が一番古い俳句と言われ、1664年(寛文4年)に「佐夜中山集」に初入集されました。1666年(寛文6年)に藤堂良忠が亡くなると職を辞したと言われています。その後「続山井」・「如意宝珠」・「大和巡礼」・「俳諧藪香物」に入集され、1672年(寛文12年)に処女句集「貝おほひ」を上野天神宮に奉納しました。1674年(延宝2年)に北村季吟から俳諧作法書「俳諧埋木」が伝授されました。1675年(延宝3年)に江戸に上って江戸の俳人らと交流し、1678年(延宝6年)頃に俳諧師を生業とし、1680年(延宝8年)に深川に草庵・芭蕉庵を結んだが、1682年(天和2年)に大火で草庵が焼失しました。1684年(貞享元年)に「野ざらし紀行」の旅に出て、その後も「鹿島詣」・「笈の小文」・「更科紀行」の旅に出ました。西行法師の500回忌に当たる1689年(元禄2年)に「おくのほそ道」の旅に出ました。なお松尾芭蕉は1694年(元禄7年)に上方への旅の途中で大阪で亡くなりました。
【俳諧師・松尾芭蕉と嵐山】
*京都には多くの桜名所があり、その桜見ごろを下記リンクから確認できます。
京都桜見ごろ2025(清水寺・哲学の道・原谷苑・・・)