峰定寺仁王門・峰定寺見所(修学旅行・観光)

峰定寺仁王門

●峰定寺仁王門は1904年(明治37年)2月18日に国の重要文化財に指定されました。
●峰定寺仁王門は南北朝時代の1350年(正平5年・貞和6年)に建立されました。仁王門には胎内銘によると平安時代後期の1163年(長寛元年)に仏師・良元が平貞能(たいらのさだよし)母尼・沙弥生面を願主として造仏した木造金剛力士立像(重要文化財)が安置されていました。金剛力士立像はヒノキの寄木造で、阿形が像高約266センチ、吽形が像高約270㎝センチです。なお木造金剛力士立像はいじれも重要文化財で、奈良国立博物館に寄託されていた木造千手観音坐像・木造不動明王二童子立像と毘沙門天立像・木造釈迦如来立像とともに収蔵庫に安置されています。
一般的に仁王門は仏教・寺院を守護し、仁王(二王)とも言われる金剛力士像を安置する門です。初期の仏教文献には門の左右に夜叉(やしゃ)を配することが記され、インド中部のマディヤ・プラデーシュ州北部にある仏教遺跡・バールフットの塔門(とうもん)に例があります。塔門と欄楯の浮彫は紀元前1世紀初期に施され、浮彫には仏教説話図の最古の仏伝図・本生図(ジャータカ)・守護神像・聖地図などがあります。なお日本では奈良時代(710年~794年)に仁王門の建立が盛んになり、飛鳥時代(592年~710年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)西院の中門が最古の仁王門です。
金剛力士像(仁王像)は像容が上半身裸形で、筋骨隆々としています。金剛力士像は二神一対で、口を開いた阿形は怒りの表情を表し、口を閉じた吽形は怒りを内に秘めた表情を表しているものが多くなっています。一般的に正面から見て右側の像(阿形)は左手に仏敵を退散させる武器である金剛杵(こんごうしよ)を持ち、一喝するように口を開け、左側の像(吽形)は右手の指を開き、怒気を帯びて口を結んでいます。なお「阿」は梵字(ぼんじ)で口を開いて発する最初の音声で、物事の始まりを表します。「吽」は梵字で口を閉じて発する最後の音声で、物事の終わりを表します。
●峰定寺仁王門は三間一戸(さんげんいっこ)八脚門(はっきゃくもん)で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
八脚門(八足門)は本柱四本の前後に控え柱四本が建てられた門です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
峰定寺

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