佛光寺歴史の簡単マトメ-修学旅行・観光の解説

佛光寺

佛光寺歴史の簡単まとめ

佛光寺歴史を簡単にまとめてポイント解説します。佛光寺は1212年(建暦2年)に承元の法難によって越後に流罪になった親鸞聖人が京都に戻って山科に草庵を結び、真宗開闢の根本道場を意味する興隆正法寺と号したのが起源と言われています。なお佛光寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(承元の法難)】

★1206年(建永元年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が紀州熊野に行幸した際、寵愛した女官である鈴虫(すずむし)・松虫(まつむし)が浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子である安楽(あんらく)・住蓮(じゅうれん)からの念仏の教えに感銘して出家しました。後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)になり、法然上人が讃岐(香川)に流罪になり、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)が越後(新潟)に流罪になり、安楽が近江国馬淵で斬首され、住蓮が京都六条河原で斬首される承元の法難(じょうげんのほうなん・建永の法難(けんえいのほうなん))が起こりました。法然上人・親鸞聖人は僧籍を剥奪され、法然上人に「藤井元彦」、親鸞聖人に「藤井善信(ふじいよしざね)」という俗名が与えられて配流されました。なお松虫(妙智法尼)・鈴虫(妙貞法尼)は瀬戸内海の生口島・光明防で念仏三昧の余生を送り、松虫は35歳、鈴虫は45歳で亡くなったと言われています。

【佛光寺創建(起源・由来)】

★佛光寺は寺伝によると鎌倉時代前期の1212年(建暦2年)に承元の法難(建永の法難)によって越後(新潟)に流罪となった親鸞聖人が京都に戻って山科(山城国山科郷)に草庵を結び、真宗開闢(かいびゃく)の根本道場を意味する興隆正法寺(こうりゅうしょうぼうじ)と号したのが起源とも言われています。なお流罪から5年後の1211年(建暦元年)11月17日に岡崎中納言範光を通じ、第84代・順徳天皇(じゅんとくてんのう)から勅免の宣旨が下され、順徳天皇から聖徳太子にまつわる勅願「興隆正法(こうりゅうしょうぼう)」を賜り、「興隆正法寺」と名付けたと言われています。「興隆正法」には「正しい法を興し栄えさす」という意味があります。

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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

★鎌倉時代前期に親鸞聖人は阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願を広める関東行化に旅立ち、弟子で、佛光寺2世・真仏(しんぶつ)が佛光寺を引き継いだと言われています。ちなみに親鸞聖人は配流先の越後(新潟)から京都に戻らず、直接関東に向かったという説もあります。その後佛光寺3世・源海(荒木門徒)、佛光寺4世・了海(阿佐布門徒)が佛光寺の母体を築いたと言われています。
★1320年(元応2年)に佛光寺7世・了源上人(りょうげんしょうにん)が佛光寺を山科から旧仏教の盛んな今比叡汁谷(しるたに・京都国立博物館辺り)に移したと言われています。了源上人は本願寺・存覚の協力などにより、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れ、佛光寺が畿内以西の真宗念仏宣布の根本法城になりました。ただ了源上人は1335年(建武2年)に布教の途上、伊賀(三重)の七里峠で賊徒に襲われて亡くなりました。その後了源上人の妻・了明尼が女性として、初の佛光寺9世・法主に就任しました。
★1327年(嘉暦2年)に本尊・阿弥陀如来(あみだにょらい)像が盗まれたが、その後南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだんごてんのう)の夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込む阿弥陀如来像の瑞光が現れ、本尊を取り戻すことができました。後醍醐天皇から勅号「阿彌陀佛光寺」を賜り、それを機会に山科から渋谷(しぶたに)に移ったとも言われています。
★1331年(元弘元年・元徳3年)に佛光寺が焼失したとも言われています。
★鎌倉時代後期以降、佛光寺の寺基移転により、多くの参詣者が参拝して隆盛を極めました。最盛期には高田専修寺(せんしゅうじ)とともに本願寺を上回る寺勢を誇っていました。ただ佛光寺の隆盛に伴って、天台宗(てんだいしゅう)の本山・延暦寺(えんりゃくじ)からの圧力も強まりました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】

★1334年(建武元年)に佛光寺が再建されたとも言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】

★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、兵火によって佛光寺の伽藍を焼失しました。
★1481年(文明13年)に佛光寺14世・経豪(きょうごう・蓮教)が本願寺(西本願寺)8代・蓮如(れんにょ)に帰依し、山科本願寺に隣接して興正寺(こうしょうじ)を創建し、佛光寺の有力末寺48坊の内の42坊も本願寺に宗旨替えし、真宗興正派を創始しました。佛光寺の寺勢は急速に衰え、本願寺が台頭していきます。残った有力末寺6坊(中坊・西坊・南坊・角坊・奥坊・新坊)は経豪の弟・経誉を浄土宗の本山・知恩院(ちおいん)から呼び戻し、新しい佛光寺14世にしました。
★室町時代以降に住職が二条家の猶子になり、妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)の許で得度する慣習ができ、佛光寺は准門跡(じゅんもんぜき)に列せられ、僧正(そうじょう)位を代々受けるようになりました。佛光寺10世・唯了以降に妙法院門跡で得度するようになったと言われています。なお妙法院は比叡山(ひえいざん)三千坊と言われる比叡山上にあった僧侶の住坊(小寺院)が起源と言われ、初代門主は天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)とされています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】

★1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が方広寺(ほうこうじ)を創建する際、佛光寺が豊臣秀吉の別荘・龍臥城(りゅうがじょう)があった現在の場所に移されました。1586年(天正14年)に豊臣秀吉が松永久秀(まつながひさひで)の焼き討ちによって焼損した奈良・東大寺(とうだいじ)の大仏に代わる大仏の造立を発願し、造営地を東福寺(とうふくじ)南側の遣迎院(けんこういん)付近に一旦選定したが、その後三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)北側にあった佛光寺に変更しました。
★1596年(文禄5年)に京都大地震によって御影堂などの伽藍が損壊したと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1603年(慶長8年)に御影堂が再建されたと言われています。
★1606年(慶長11年)に慶長の大地震によって伽藍が倒壊したと言われています。
★1654年(承応3年)に御影堂が再建されたと言われています。
★1788年(天明8年)に天明の大火によって御影堂・阿弥陀堂などの伽藍が焼失したと言われています。
★1802年(享和2年)に伽藍が再建されたと言われています。
★1830年(文政13年)に文政の大地震によって土蔵が崩落したと言われています。
★1864年(文久4年)に禁門の変によって御影堂・阿弥陀堂などの伽藍が焼失したと言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★1879年(明治12年)に阿弥陀堂門(本堂門)が再建されました。
★1884年(明治17年)に宗祖・親鸞聖人坐像を祀る現在の御影堂が再建されました。
★1904年(明治37年)に本尊・阿弥陀如来立像を祀る現在の阿弥陀堂(本堂)が再建されました。

【親鸞聖人:佛光寺開山】

親鸞聖人は1173年(承安3年)に皇太后宮大進・日野有範と吉光女の長男として生まれました。1181年(治承5年)に叔父・日野範綱に伴われて天台三門跡・青蓮院に入り、その後天台座主・慈円(慈鎮)のもとで得度しました。出家後に延暦寺で20年間修行を続け、天台宗を学びました。1201年(建仁元年)に六角堂(紫雲山頂法寺)に百日参籠し、夢告に従って浄土宗の宗祖・法然上人の門弟になり、浄土教を学びました。1207年(建永2年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)の怒りに触れる承元の法難に連座し、専修念仏が停止され、法然上人と親鸞聖人を含む7名の弟子が流罪になりました。越後(新潟)に配流され、1211年(建暦元年)に勅赦なったが、1212年(建暦2年)に法然上人が亡くなると京都に戻らず、信濃(長野)・下野(千葉)・常陸(茨城)などの約20年間に渡って東国布教を努め、常陸稲田で4年の歳月を掛けて浄土真宗の教義を体系化した「教行信証」を著しました。60歳で帰洛の途につき、62歳頃に帰京し、京都で転々と住居を移して教化と著述に努めました。なお親鸞聖人は1263年(弘長3年)に90歳で亡くなりました。

【佛光寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・佛光寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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