平等院鳳凰堂・平等院見どころ(修学旅行)

●平等院鳳凰堂は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●平等院鳳凰堂は平安時代後期の1053年(天喜元年)に平等院開基で、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が建立しました。
藤原頼通は平安時代中期の992年(正暦3年)正月に摂政太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)と左大臣・源雅信(みなもとのまさざね)の娘で、正室・源倫子(みなもとのりんし)の長男として生まれました。998年(長徳4年)に清涼殿(せいりょうでん)の殿上の間に出入りを許された童殿上(てんじょうわらわ)になり、1003年(長保5年)に12歳で元服して正五位下に叙され、1006年(寛弘3年)に15歳で従三位に叙され、太政官の最高幹部として国政を担う公卿(くぎょう)に列し、1013年(長和2年)に権大納言(だいなごん)に任ぜられました。1016年(長和5年)に第67代・三条天皇が敦成親王(第68代・後一条天皇)に譲位すると父・藤原道長が外祖父として摂政になり、翌1017年(長和6年)に内大臣になるとともに父・藤原道長に代わって摂政になり、藤原氏長者にもなりました。1019年(寛仁3年)に関白になったが、父・藤原道長が実権を握っていたことから政務の不手際から勘当になったこともありました。1021年(治安元年)に左大臣になり、1061年(康平4年)に70歳で太政大臣になりました。藤原頼通は第68代・後一条天皇、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇の3代にわたって摂政・関白になり、父・藤原道長とともに藤原氏による摂関政治の全盛期を築きました。ただ第70代・後冷泉天皇の皇后となった娘・藤原寛子(ふじわらのかんし)に皇子がなくて外祖父になれず、第71代・後三条天皇が即位すると藤原氏の権勢は徐々に衰えていきます。なお藤原頼通は1074年(延久6年)3月2日に亡くなりました。
●平等院鳳凰堂は東方に面して建立され、阿字池(あじいけ)を隔てた西方に極楽浄土(ごくらくじょうど)があることを示しています。なお平安時代後期になるとお釈迦様の入滅から2,000年目以降に仏法が廃れるという末法思想(まっぽうしそう)が信じられるようになり、平等院が創建された1052年(永承7年)は末法元年に当たり、貴族らは極楽往生を願って西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀る仏堂を盛んに建立しました。
極楽浄土は大乗仏教の如来のひとつで、西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来のいる世界です。極楽浄土は西方十万億土の彼方にあり、全く苦しみのない理想郷で、阿弥陀如来が今も法を説いているとされています。阿弥陀如来を信じ、ひたすら念仏を唱えると死後に極楽浄土に迎えられると言われています。極楽浄土の基礎となる浄土教は紀元前後に起こった大乗仏教とともに成立し、紀元100年頃に編纂された「無量寿経(むりょうじゅきょう)」・「阿弥陀経(あみだきょう)」とともにインドに広がり、2世紀後半に中国に伝わり、飛鳥時代(7世紀前半)に日本に伝わり、阿弥陀如来像が盛ん造られるようになりました。
末法思想はお釈迦様の入滅後、年代がたつにつれて正しい教法が衰滅するとする思想です。正しい教えが世で行われ、修行して悟る人がいる正法(しょうぼう)・正しい教えが世で行われも悟る人がいない像法(ぞうぼう)の時代を経て、教え(仏説)のみが残り、修行も悟りも得られなくなる末法に入るとされています。お釈迦様の入滅を壬申の年 (紀元前949) とし、正法1,000年、像法1,000年の後の1052年(永承7年)に末法を迎えるとされました。
平等院見どころ

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