平等院浄土院大書院・平等院見どころ(修学旅行・観光)

平等院浄土院大書院

●平等院浄土院大書院は15世紀後半(室町時代中期・後期)に建立されたとも言われています。大書院は古図によると平等院山内で最も古い書院とも言われています。大書院では鎌倉時代末期に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇が三種の神器(さんしゅのじんぎ)とともに平等院に滞在し、大書院に御座所(ござしょ)などが残されています。1331年(元弘元年)に後醍醐天皇による鎌倉幕府の倒幕計画が側近・吉田定房(よしださだふさ)の密告によって露見し、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)に頼ろうとしたが、失敗し、笠置山(かさぎやま)に籠城する途中に平等院に立ち寄りました。その後笠置山が落城して捕えられ、 1332年(正慶元年)に後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)に配流されました。大書院には蘭香斎玉寳の獅子図4面が飾られています。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
第96代・後醍醐天皇は鎌倉時代後期の1288年(正応元年)11月26日に大覚寺統(だいかくじとう)の第91代・後宇多天皇と五辻忠子(いつつじちゅうし)の第2皇子として生まれました。1302年(正安4年)に親王宣下を受け、1304年(嘉元2年)に大宰府(だざいふ)の長官・大宰帥(だざいのそち)になり、帥宮(そちのみや)と言われました。1308年(徳治3年)に持明院統(じみょういんとう)の第95代・花園天皇が即位すると皇太子になり、1318年(文保2年)に第95代・花園天皇が譲位すると第96代・後醍醐天皇に即位しました。即位後は後宇多法皇(第91代・後宇多天皇)が院政を行っていたが、1321年 (元亨元年) に後宇多法皇の院政を停止し、天皇の親政を始めました。吉田定房(よしださだふさ)・北畠親房(きたばたけちかふさ)らの人材を集めて記録所を再興し、政治改革を始めました。また鎌倉幕府打倒を図ったが、1324年(正中元年)の正中の変・1331年(元弘元年)の元弘の乱に失敗し、1332年(正慶元年)に隠岐(おき)に流されました。その後隠岐を脱出し、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府が滅ぶと京都に戻り、建武の新政(けんむのしんせい・建武の中興(けんむのちゅうこう))を開始しました。しかし室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、京都を脱出して奈良・吉野に南朝を樹立し、南北朝時代が始まりました。第96代・後醍醐天皇は1339年(延元4年・暦応2年)9月19日に退勢を挽回(ばんかい)できずに悲運の内に吉野で崩御しました。
●平等院浄土院大書院は入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
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