平等院表門・平等院見どころ

平等院表門

●平等院表門は江戸時代初期に伏見城(ふしみじょう)に建てられ、その後塔頭(たちゅう)・浄土院(じょうどいん)に移され、1957年(昭和32年)に平等院の表門(正門・北門)として更に移されたとも言われています。
浄土院は浄土宗の寺院で、江戸時代中期の1681年(天和元年)の寺社奉行の裁定以降、天台宗(てんだいしゅう)系の塔頭・最勝院(さいしょういん)とともに平等院を毎年交代で共同管理しています。浄土院は戦国時代(室町時代後期)の明応年間(1492年~1501年)に内大臣・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の息子とも言われる浄土宗の僧・栄久上人(えいくしょうにん)が平等院の修復の為に山内に創建したと言われています。その後江戸時代初期の1601年(慶長6年)に養林庵書院(重要文化財)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が築城した伏見城から移され、江戸時代前期の1640年(寛永17年)に羅漢堂(宇治市指定文化財)が建立されました。なお浄土院では2015年(平成27年)に栄久上人の500年遠忌が行われました。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲った豊臣秀吉(とよとみひでよし)が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政(あさのながまさ)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)が起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●平等院表門は切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。平等院表門はケヤキの木で造られています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
平等院見どころ

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