知恩院阿弥陀堂・知恩院見どころ

知恩院阿弥陀堂

●知恩院阿弥陀堂は1910年(明治43年)に再建されました。知恩院阿弥陀堂はかつて鎌倉時代に知恩院第2世・勢観房源智(せいかんぼうげんち)が勢至堂(せいしどう)前に建立しました。江戸時代中期の1710年(宝永7年)に現在の場所に移されたが、明治時代に荒廃して取り壊されました。知恩院阿弥陀堂には高さ約2.7メートルの本尊・阿弥陀如来坐像が安置されています。
勢観房源智は平安時代末期の1183年(寿永2年)に平師盛(たいらのもろもり)の子として生まれたと言われています。平家没落後に母とともに源氏の探索から逃れ、1195年(建久6年)13歳で浄土宗の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子になりました。その後法然上人に帰依した太政大臣・九条兼実(くじょうかねざね)の実弟で、天台座主(てんだいざす)・慈円(じえん)のもとで出家得度しました。法然上人の高弟・真観房感西(しんかんぼうかんさい)のもとで学び、真観房感西が亡くなると法然の元に戻り、1212年(建暦2年)に法然上人が亡くなるまでの約12年間近侍しました。勢観房源智は法然上人の臨終の2日前に遺言を記した「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」を授けられ、首に懸けていたが、河合(ただす)の法眼の所望に応じて授与し、「一枚起請文」として世間に流布しました。また法然上人から本尊・坊舎・円頓戒(えんどんかい)の道具などをも授かりました。法然上人没後に延暦寺衆徒による弾圧・嘉禄の法難(かろくのほうなん)が起こり、坊舎・法然上人の廟所などが荒廃したが、1234年(文暦元年)に勢観房源智が再興し、第87代・四条天皇から仏殿に「大谷寺」、廟額に「知恩教院」、総門に「華頂山」の勅額を賜りました。1237年(嘉禎3年)に教団を鎮西義(ちんぜいぎ)の弁長(べんちょう)に託する書状を書き、1238年(暦仁元年)に法然上人が住んだ賀茂の河原屋の旧跡・功徳院(くどくいん)で亡くなりました。勢観房源智は知恩寺3世・蓮寂房信慧(れんじゃくぼうしんえ)、浄信(じょうしん)、宿蓮(しゅくれん)などを弟子とし、その門流を紫野門徒(むらさきのもんと)と言われ、勢観房源智は紫野門徒の祖とされています。
●知恩院阿弥陀堂は桁行五間・梁行四間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。知恩院阿弥陀堂は裳階(もこし)付です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や法隆寺(ほうりゅうじ)金堂と五重塔・薬師寺(やくしじ)の東塔が代表例です。白鳳時代(はくほうじだい)に建立された法隆寺の金堂と五重塔が日本最古の例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
知恩院見どころ

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