知恩院大方丈・小方丈・知恩院見どころ(修学旅行)

●知恩院大方丈・小方丈は1910年(明治43年)8月29日に国の重要文化財に指定されました。
●知恩院大方丈・小方丈は1641年(寛永18年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の命により、茶道石州流の祖で、大和小泉藩第2代藩主・片桐貞昌(かたぎりさだまさ・片桐石州(かたぎりせきしゅう))を造営奉行として再建されました。知恩院大方丈・小方丈は江戸時代初期の1603年(慶長8年)に建立されたが、1633年(寛永10年)1月9日に焼失し、1641年(寛永18年)に再建されました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
片桐貞昌は江戸時代前期の1605年(慶長10年)に大和国小泉藩初代藩主・片桐貞隆(かたぎりさだたか)の長男として生まれました。1614年(慶長19年)に豊臣家の直参家臣・片桐且元(かたぎりかつもと)の人質として京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)に預けられ、1617年(元和3年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)に拝謁しました。1624年(寛永元年)に従五位下、石見守に叙任され、1627年(寛永4年)に父・片桐貞隆が亡くなると家督を継ぎました。1633年(寛永10年)から知恩院再建の普請奉行を務め、京都・綾小路柳馬場に居を構え、宗和流茶道の祖・金森宗和(かなもりそうわ)、遠州流の祖・小堀遠州(こぼりえんしゅう)、寛永の三筆と称せられた松花堂昭乗松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)らと交友し、大徳寺147世・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、大徳寺185世・玉舟宗ばん(ぎょくしゅうそうばん)に参禅し、大徳寺山内に高林庵(こうりんあん)を創建しました。知恩院再建後は関東郡奉行などを歴任しました。なお片桐貞昌は1673年(延宝元年)11月20日に亡くなりました。
一般的に方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院の住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。方丈は大乗仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」にインドの在家仏徒・維摩居士(ゆいまこじ)が神通力で1丈四方の部屋に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)など8,000人の菩薩や仏弟子である500人の声聞(しょうもん)を招き入れたという故事に由来しています。そこから方丈に全宇宙が内在し、住職の居室を方丈というようになりました。方丈は堂頭(どうちょう)・堂上(どうじょう)・正堂(しょうどう)・函丈(かんじょう)とも言われています。なお「維摩経」は仏教伝来とともに伝わったとも言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)の注釈書「維摩経義疏(三経義疏(さんぎょうぎしょ))」が残されています。
知恩院見どころ

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