知恩院大庫裏・小庫裏・知恩院見どころ

知恩院大庫裏・小庫裏

●知恩院大庫裏・小庫裏は1997年(平成9年)5月29日に国の重要文化財に指定されました。
●知恩院大庫裏・小庫裏は江戸時代前期の1641年(寛永18年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の命によって再建されました。知恩院大庫裏・小庫裏は江戸時代初期の1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の命により、御影堂・集会堂・大方丈・小方丈などとともに建立されたが、1633年(寛永10年)1月9日に勢至堂・経蔵・三門以外の伽藍を除いて焼失し、1641年(寛永18年)に再建されました。知恩院32世・霊巖上人(れいがんしょうにん)は江戸に下がって徳川家光に報告し、徳川家光が再建の命を下し、大和小泉藩第2代藩主・片桐貞昌(かたぎりさだまさ)が造営奉行になりました。なお知恩院大庫裏は雪香殿(せっこうでん)とも言われています。
徳川家光は1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
一般的に庫裏(庫裡・庫院)は寺院の僧侶の居住する場所や食事を調える場所です。庫裏は禅宗寺院で、仏像を安置して礼拝する仏殿・三解脱門(さんげだつもん)である三門(山門)・仏道修行に励む僧堂・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・浴場である浴室・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられました。庫裏は大規模な寺院では独立した建物として建立されるが、一般的な寺院では寺の事務を扱う寺務所と兼用となっていることが多くなっています。
●知恩院大庫裏は桁行約31.5メートル・梁間約25.6メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。知恩院大庫裏は北面に張出があります。小庫裏は桁行約29.6メートル・梁間約13.8メートルで、入母屋造の本瓦葺です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
知恩院見どころ

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