知恩院黒門・知恩院見どころ

知恩院黒門

●知恩院黒門は京都府有形文化財です。
●知恩院黒門は桃山時代から江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に伏見城に建てられ、その後知恩院に移されたとも言われています。江戸時代後期の1835年(天保6年)に修復されたとも言われています。黒門前には知恩院七不思議に数えられている瓜生石(うりゅうせき)があります。なお知恩院黒門は粟田神社(あわたじんじゃ)の粟田祭(あわたまつり)の際に知恩院の僧侶が出入り口として利用し、瓜生石の前でれいけん祭などが行われ、粟田神社の神職による祝詞奏上・知恩院の僧侶による読経という神仏習合が見られます。
瓜生石は黒門前の路上にあり、周囲に石柵を巡らされています。瓜生石は誰も植えた覚えがないのに瓜が花を咲かせて青々と実ったとも、八坂神社の祭神・牛頭天王(ごずてんのう)が瓜生山(うりゅうざん)に降臨し、その後瓜生石に来現して一夜の内に瓜が実ったとも言われています。また瓜生石を掘ると二条城までつづく抜け道があるとも、隕石が落ちた場所とも言われています。なお瓜生石は知恩院が建立される前からあったとも言われています。
粟田祭は平安時代中期の1001年(長保3年)旧暦9月9日の夜、一人の神童が八坂神社に現れ、「今日より7日後に八坂神社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし。」と神人に告げ、7日後の9月15日にお告げの通りに瑞光が現れたことから神幸が始まったのが起源と言われています。なお粟田祭は室町時代に比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の影響力により、八坂神社の祭礼・祇園祭が行われなかった際、粟田祭が代わりに行われたとも言われています。
伏見城は安土桃山時代の1592年(天正20年)に豊臣秀次に関白職を譲った豊臣秀吉が平安時代から観月の名所であった伏見指月(しげつ)に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼が誕生し、大坂城を豊臣秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われ、いずれも五奉行であった浅野長政・前田玄以・増田長盛などの家臣団屋敷や大名屋敷がありました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震によって建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山(こばたやま)に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、豊臣秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に豊臣秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●知恩院黒門は桁行四間・梁行一間で、切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
知恩院見どころ

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