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知恩院経蔵・知恩院見所(修学旅行・観光)
●知恩経蔵は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●知恩院経蔵は江戸時代前期の1621年(元和7年)に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)が三門(国宝)とともに建立されました。
徳川秀忠は安土桃山時代の1579年(天正7年)5月2日に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と側室・西郷局(さいごうのつぼね)の三男として遠江国浜松に生まれました。1579年(天正7年)10月5日に長兄・松平信康(まつだいらのぶやす)が切腹し、1584年(天正12年)12月12日に次兄・松平秀康(まつだいらひでやす)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子になり、その後結城氏を継いだことから徳川秀忠が実質的な世子になりました。1590年(天正18年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造営した聚楽第(じゅらくてい)で元服し、豊臣秀吉の偏諱(へんき・かたいみな)を受けて徳川秀忠と名乗るようになり、豊臣姓も与えられました。また1595年(文禄4年)9月17日には豊臣秀吉の養女・江(ごう)を継室としました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは信濃国上田城攻めに時間を費やし、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、父・徳川家康から叱責を受けたが、1605年(慶長10年)に将軍職を譲られ、江戸幕府第2代将軍になりました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣・1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、1616年(元和2年)に父・徳川家康が亡くなると将軍親政を開始しました。徳川秀忠は父・徳川家康とともに武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)などの制定し、幕政の整備に努め、徳川氏の世襲的政権を確立しました。1623年(元和9年)に嫡男で、江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に将軍職を譲りました。なお徳川秀忠は1632年(寛永9年)3月14日に亡くなりました。
一般的に経蔵は寺院で「一切経(いつさいきよう)」などの経典を納める蔵です。経蔵は経堂・経楼とも言われています。
●知恩院経蔵には江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠が寄進した「宋版一切経」約6千帖を安置する八角輪蔵が備えられています。八角輪蔵(はっかくりんぞう)を一回転させると「一切経」を読誦するのと同じ功徳を積むことができると言われています。
「一切経」は仏教の経典を総集したものです。「一切経」は経蔵(きょうぞう・仏の教説集)・律蔵(りつぞう・仏弟子の生活規範)・論蔵(ろんぞう・インド仏教学者による経の解釈)の三蔵(さんぞう)を中心にそれらの注釈書などを加えたものです。「一切経」には古代インドの標準的文章語である梵語(ぼんご・サンスクリット語)・古代中西部インドのパーリ語の原典にチベット語・中国語・蒙古語・満州語などの訳本があります。「一切経」は「大蔵経(だいぞうきょう)」とも言われています。「一切経」は中国の南北朝時代(439年~580年)から使用され、「大蔵経」は中国の隋時代(581年~618年)から使用されています。
八角輪蔵は中央の心柱を支えとする回転書架です。八角輪蔵はお釈迦様の転法輪(てんぼうりん)に由来し、中国南朝梁の傅大士(ふだいし)が起源とも言われています。傅大士は「一切経(大蔵経)」を閲覧する便を図って、転輪蔵を考案しました。
【知恩院 備考】
*参考・・・京都・知恩院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●知恩院の歴史(創建から現在)を紹介しています。
知恩院歴史(法然上人・徳川家康)
●知恩院の見どころ(御影堂・三門など)を紹介しています。
知恩院見どころ(御影堂・三門など)