知恩院三門・知恩院見どころ

●知恩三門は1910年(明治43年)8月29日に国の重要文化財、2002年(平成14年)5月23日に国宝に指定されました。
●知恩院三門は江戸時代前期の1619年(元和5年)に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)が建立を発意し、1621年(元和7年)に完成しました。知恩院三門は京都代官で、普請奉行・五味金右衛門(ごみきんえもん)らが建立したが、工事の予算が超過した為、その責任をとって自刃したと言われ、五味金右衛門夫妻の木像が安置されてる白木の棺が置かれています。
徳川秀忠は安土桃山時代の1579年(天正7年)5月2日に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と側室・西郷局(さいごうのつぼね)の三男として遠江国浜松に生まれました。1579年(天正7年)10月5日に長兄・松平信康(まつだいらのぶやす)が切腹し、1584年(天正12年)12月12日に次兄・松平秀康(まつだいらひでやす)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子になり、その後結城氏を継いだことから徳川秀忠が実質的な世子になりました。1590年(天正18年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造営した聚楽第(じゅらくてい)で元服し、豊臣秀吉の偏諱(へんき・かたいみな)を受けて徳川秀忠と名乗るようになり、豊臣姓も与えられました。また1595年(文禄4年)9月17日には豊臣秀吉の養女・江(ごう)を継室としました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは信濃国上田城攻めに時間を費やし、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わず、父・徳川家康から叱責を受けたが、1605年(慶長10年)に将軍職を譲られ、江戸幕府第2代将軍になりました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣・1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、1616年(元和2年)に父・徳川家康が亡くなると将軍親政を開始しました。徳川秀忠は父・徳川家康とともに武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)などの制定し、幕政の整備に努め、徳川氏の世襲的政権を確立しました。1623年(元和9年)に嫡男で、江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に将軍職を譲りました。なお徳川秀忠は1632年(寛永9年)3月14日に亡くなりました。
一般的に三門(山門)は一切は空と悟る空門(くうもん)・一切の執着を離れた無相門(むそうもん)・一切の願求(がんぐ)の念を捨てる無願門(むがんもん)の三境地を経て、仏国土(ぶっこくど)に至る門・三解脱門(さんげだつもん)のことです。三門は寺院の正門で、禅宗七堂伽藍(山門・本尊を安置する仏殿(金堂)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・坐禅など仏道修行に励む僧堂(そうどう)・僧侶が居住する庫裏(くり)・トイレである東司(とうす)・浴室である浴室(よくどう))に数えられています。なお山門は本来山上に建てられた寺院の門のことを言っていたが、現在は平地に建てられた寺院の門のことも言います。
知恩院見どころ

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