知恩院集会堂・知恩院見どころ

●知恩院集会堂は1997年(平成9年)5月9日に国の重要文化財に指定されました。
●知恩院集会堂は江戸時代前期の1633年(寛永10年)に焼失し、1635年(寛永12年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光が再建しました。その後1671年(寛文11年)・1701年(元禄14年)・1760年(宝暦10年)・1827年(文政10年)・1835年(天保6年)・1901年(明治34年)・1924年(大正13年)・2005年(平成17年)に屋根瓦などの修理が行われました。なお知恩院集会堂は桁行約42.9メートル・梁間約23.7メートル・棟高約16.9メートル・面積約1,017平方メートル(含回廊)で、千畳敷とも言われ、1872年(明治5年)に行われた京都博覧会の会場になりました。また知恩院集会堂は御影堂の修理期間中に限り、法然上人御堂(ほうねんしょうにんみどう)と称することになりました。御影堂は集会堂の約1.5倍あり、集会堂には東西約51メートル・南北約16メートルの床が増床されました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
京都博覧会は1871年(明治4年)10月11日~11月11日に三井八郎右衛門(三井財閥)・小野善助(小野組)・熊谷久右衛門(鳩居堂)が主催し、西本願寺を会場に日本初の博覧会として行われました。その後京都府と民間が京都博覧会社を創設し、1872年(明治5年)に知恩院・西本願寺(にしほんがんじ)・建仁寺(けんにんじ)・京都市勧業勧業館などを会場に第1回京都博覧会が行われました。ちなみに京都博覧会は1871年(明治4年)~1928年(昭和3年)までにほぼ毎年開催され、56回も開催されました。なお1895年(明治28年)には京都岡崎を会場に第4回内国勧業博覧会も開催されました。
知恩院見どころ

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