醍醐寺阿闍梨寮「寿庵」・醍醐寺見どころ(修学旅行)

醍醐寺阿闍梨寮「寿庵」

●醍醐寺阿闍梨寮「寿庵」は醍醐寺境内でも紅葉が美しいと言われる林泉(りんせん)・弁天堂などを臨むお休み処です。闍梨寮「寿庵」ではゆば丼・醐山湯葉カレー・黒糖わらび餅・わらび餅とアイスクリーム・抹茶と和菓子・くず湯と和菓子・ケーキセット・クリームあんみつ・白玉ぜんざい・アイスクリームなどを楽しむことができます。なお阿闍梨寮「寿庵」は1930年(昭和5年)に実業家・山口玄洞(やまぐちげんどう)の寄進によって建立された阿闍梨寮が起源とも言われ、かつて高僧(阿闍梨)が宿舎として使用していました。
阿闍梨(あじゃり)はサンスクリット(古代インド語)で「軌範(きはん)」を意味し、漢語で「師範」・「軌範師」などと表記されました。阿闍梨は正しく戒律を守り、弟子の規範になり、仏法を教授する師匠・僧侶のことです。阿闍梨は元々バラモン教で弟子にベーダなどの儀則を教示する指導者を意味し、その後仏教に取り入れられ、小乗仏教で弟子の行為を正し、師範として教授する徳の高い僧侶を指すようになりました。阿闍梨には法を教授する教授阿闍梨・伝法の灌頂を受けた伝法阿闍梨・伝法阿闍梨の内で、特に徳の高い者である大阿闍梨・祈願の勅命を受けて導師を務める七高山阿闍梨・皇族や摂家など貴種から若い内に阿闍梨の称号を許された一身阿闍梨などがいました。なお阿闍梨では比叡山で千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を満行した北嶺大先達大行満大阿闍梨がよく知られています。
山口玄洞は江戸時代末期(幕末)の1863年(文久3年)11月20日に医師・山口寿安の長男として備後国尾道久保町(広島県尾道市久保)に生まれました。1871年(明治4年)9歳から愛媛岩城島の漢学塾・知新館に学び、1877年(明治10年)に父・山口寿安が急死すると退塾して尾道に戻って行商を始めました。1878年(明治11年)に大阪心斎橋筋の洋反物店・土居善で丁稚奉公を始めたが、1881年(明治14年)に土居善が倒産し、そこでの縁から鳥取で商いを始めました。1882年(明治15年)に大阪伏見町(大阪市中央区)で洋反物仲買・山口商店を開業し、徐々に規模を拡大し、1894年(明治27年)からの日清戦争で軍需品の洋反物が一層売れました。1896年(明治29年)34歳で山口家四代目として家名を継ぎ、玄洞を襲名しました。1904年(明治37年)に多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選されたが、1906年(明治39年)に辞任しました。日露戦争以降も業績を伸ばし、三十四銀行取締役・大阪織物同業組合初代組長・共同火災監査役などを歴任しました。1917年(大正6年)56歳で実業家を引退し、京都で静養生活に入りました。山口玄洞は信仰に没頭し、資産の多くを寄付に使いました。寄付は神護寺(じんごじ)の金堂・多宝塔・龍王神堂、知恩寺(ちおんじ)の修道院本堂・表門などに使われたり、日本赤十字社・早稲田大学・京都帝国大学に使われたりしました。記録に残る主なものだけでも147件の寄付・寄進をしています。なお山口玄洞は1937年(昭和12年)1月10日に亡くなりました。
林泉(林泉苑)は弁天堂・観音堂などが建立されている池の周り一帯です。林泉は下醍醐で最も艶やかな紅葉のスポットとも言われています。
弁天堂は1930年(昭和5年)に実業家・山口玄洞の寄進によって林泉北東岸に建立されました。弁天堂には音楽などの学芸や知識の女神である弁才天が祀られています。なお弁天堂は宝形造の銅板葺です。
醍醐寺見どころ

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