醍醐寺弁天堂・醍醐寺見どころ(修学旅行)

醍醐寺弁天堂

●醍醐寺弁天堂は1930年(昭和5年)に実業家・山口玄洞(やまぐちげんどう)の寄進によって林泉(りんせん)北東岸に建立されました。弁天堂には音楽などの学芸や知識の女神である弁才天が祀られています。ちなみに弁天堂は林泉やその周辺に建立されている観音堂・鐘楼・伝法学院などとともに大伝法院とも言われています。なお弁天堂は朱塗りの橋とともに紅葉の撮影スポットになっています。
弁財天は仏教の守護神である天部(てんぶ)のひとつです。弁財天は元々インドのサラスバティー川の河神であったが、後に梵天(ぼんてん)の妃になると広く信仰されるようになりました。その後仏教に取入れられると音楽・財富・知恵・延寿などを司る女神になりました。「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」では頭上に白蛇(はくじゃ)をのせ、鳥居をつけた宝冠(ほうかん)を被り、八臂(8本の手)に弓・箭(せん)・刀・さく・斧(おの)・長杵(ながきね)・鉄輪(かんなわ)・羂索 (けんじゃく) を持ち、金光明経を説いたり、智慧・長寿・富を与えると記されています。弁才天信仰は奈良時代に既に始まっており、弁財天は宗像三女神(むなかたさんじょしん)の市杵嶋姫命(いちきしまひめ)や吉祥天(きっしょうてん)と同一視され。音楽・弁才・財福・知恵の徳があるとされています。なお弁財天は恵比寿・大黒天・福禄寿・毘沙門天・布袋・寿老人とともに七福神に数えられています。
山口玄洞は江戸時代末期(幕末)の1863年(文久3年)11月20日に医師・山口寿安の長男として備後国尾道久保町(広島県尾道市久保)に生まれました。1871年(明治4年)9歳から愛媛岩城島の漢学塾・知新館に学び、1877年(明治10年)に父・山口寿安が急死すると退塾して尾道に戻って行商を始めました。1878年(明治11年)に大阪心斎橋筋の洋反物店・土居善で丁稚奉公を始めたが、1881年(明治14年)に土居善が倒産し、そこでの縁から鳥取で商いを始めました。1882年(明治15年)に大阪伏見町(大阪市中央区)で洋反物仲買・山口商店を開業し、徐々に規模を拡大し、1894年(明治27年)からの日清戦争で軍需品の洋反物が一層売れました。1896年(明治29年)34歳で山口家四代目として家名を継ぎ、玄洞を襲名しました。1904年(明治37年)に多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選されたが、1906年(明治39年)に辞任しました。1917年(大正6年)56歳で実業家を引退し、京都で静養生活に入りました。山口玄洞は信仰に没頭し、資産の多くを寄付に使いました。なお山口玄洞は1937年(昭和12年)1月10日に亡くなりました。
●醍醐寺弁天堂は宝形造(ほうぎょうづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
宝形造は隅棟(すみむね)が屋根の中央に集まり、屋根の頂部に水平の棟を作らない屋根形式です。ちなみに宝形造は寄棟造(よせむねづくり)のように雨が四方に流れ落ちます。宝形造の名称は露盤(ろばん)・伏鉢(ふくばち)・宝珠(ほうじゅ))の総称を宝形と言うことに由来しています。なお宝形造は方形造とも言われています。屋根が六角形の場合に六注、八角形の場合に八注と言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。

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