醍醐寺縁結白山大権現・醍醐寺見どころ(修学旅行・観光)

醍醐寺縁結白山大権現

●醍醐寺縁結白山大権現は上醍醐に建立されている如意輪堂(重要文化財)と開山堂(重要文化財)の間に祀られています。縁結白山大権現は平安時代前期の897年(寛平9年)に真言宗の開祖である弘法大師・空海の孫弟子で、醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が醍醐山山上の鎮守として勧請して祀ったとも言われています。江戸時代初期に関白・豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が社殿を再建したと言われています。
白山大権現は石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる標高約2,702メートルの白山(はくさん)の山岳信仰と修験道(しゅげんどう)が融合した神仏習合の神(しんぶつしゅうごう)で、十一面観音(じゅういちめんかんのん)を本地仏(ほんじぶつ)としています。白山大権現は奈良時代前期の717年(養老元年)に修験者・泰澄(たいちょう・越の大徳(こしのだいとく))が白山の主峰で、最高点である御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していると緑碧池(りょくへきいけ・翠ヶ池(みどりがいけ))から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現し、自らを伊弉冊尊(いざなみのみこと)の化身で白山明神(はくさんみょうじん)・妙理大菩薩(みょうりだいぼさつ)と名乗って顕現したのが起源とも言われています。なお白山大権現(菊理媛神(くくりひめのかみ))は喧嘩するイザナギとイザナミを仲裁したことから縁結びの神様とも言われています。
理源大師・聖宝は832年(天長9年)3月21日に讃岐国(香川県)で生まれました。847年(承和14年)16歳で奈良・東大寺に入り、真言宗の宗祖である弘法大師・空海の実弟で、東大寺別当・真雅に師事して出家しました。その後奈良・元興寺の円宗・願暁から三論宗、東大寺の平仁から法相宗、東大寺の玄永に華厳宗を学びました。872年(貞観13年)に真雅から無量寿法を受け、874年(貞観16年)に醍醐寺を創建しました。880年(元慶4年)に弘法大師・空海の甥で、金剛峯寺座主・真然に学んで両部大法を受け、884年(元慶8年)に東寺二長者・源仁に伝法灌頂を授けられました。887年(仁和3年)に朝廷から正式に伝法灌頂職位を授けられ、895年(寛平7年)に東寺二長者になり、896年(寛平8年)に東寺別当を兼ね、906年(延喜6年)に東寺一長者になりました。907年(延喜7年)に醍醐寺が第60代・醍醐天皇の御願寺になりました。なお理源大師・聖宝は909年(延喜9年)7月25日に亡くなりました。
豊臣秀頼は1593年(文禄2年)8月29日に関白・豊臣秀吉と側室・淀殿(浅井茶々)の間の第2子として大坂城で生まれました。豊臣秀頼は豊臣秀吉57歳の時の子で、健康な成長を願って、一旦捨てた形にして家臣・松浦重政が拾い上げました。豊臣秀吉は豊臣秀頼誕生直後に関白・豊臣秀次の娘と婚約させようとしたが、1595年(文禄4年)に豊臣秀次の関白職を奪って自刃させ、豊臣秀頼の継嗣としての地位を確定させました。豊臣秀頼は豊臣秀吉とともに伏見城に住んでいたが、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼は家督を継ぎ、豊臣秀吉の遺命によって大坂城に移り住みました。豊臣秀頼は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に摂津・河内・和泉を知行する一大名になったが、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の子・千姫と結婚しました。しかし1614年(慶長19年)の方広寺鐘銘事件によって大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)6月4日に秀頼は淀殿らとともに自害しました。
●醍醐寺縁結白山大権現は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
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