醍醐寺の歴史は理源大師が准胝・如意輪観音を安置したのが起源
醍醐寺の時代別年表と重要人物
醍醐寺は874年(貞観16年)に理源大師・聖宝が横尾明神の示現により、上醍醐山上で醍醐水の霊泉を得て小堂宇を建立し、准胝観音・如意輪観音を安置したのが起源です。聖宝は醍醐寺を開山し、醍醐山と名付けました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【深草の貞観寺の座主・理源大師・聖宝】
- 平安時代前期の874年(貞観16年)頃に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の孫弟子で、醍醐寺開山である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が深草の貞観寺(じょうがんじ)の座主になったとも言われています。
【醍醐寺の起源・始まり】
- 醍醐寺は平安時代前期の874年(貞観16年)に理源大師・聖宝が横尾明神(よこおみょうじん)の示現により、上醍醐山上(笠取山(かさとりやま)山頂)で醍醐水の霊泉を得て小堂宇を建立し、自ら刻んだ准胝観音(じゅんていかんのん)・如意輪観音(にょいりんかんのん)を安置したのが起源です。理源大師・聖宝は深草の貞観寺から東側を見ていると五色の雲が棚引き、その雲に誘われて山に登ると一人の老人が湧き水を飲んで、「甘露。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。理源大師・聖宝が老人に寺院を建立したいと声を掛けると老人はこの地は諸仏・諸菩薩の雲集する地で、自分が地主の横尾大明神だからこの地を差し上げ、長く守護しようと言って、姿を消しました。理源大師・聖宝は醍醐寺を開山し、笠取山山頂付近を醍醐山と名付けたとも言われています。
- 醍醐寺では876年(貞観18年)に理源大師・聖宝が准胝堂・如意輪堂を建立したと言われています。なお醍醐寺は当初私寺で、顕密(けんみつ)兼学でした。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 907年(延喜7年)に醍醐寺が第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の勅願寺(ちょくがんじ)になりました。醍醐天皇・穏子皇后から帰依され、上醍醐に薬師堂を建立して薬師三尊(やくしさんぞん)を安置し、鎮護国家の為に五大堂を建立して五大明王(ごだいみょうおう)を安置しました。その後926年(延長4年)に醍醐天皇の御願によって下醍醐に釈迦堂(金堂)が建立されました。
- 911年(延喜11年)に理源大師・聖宝の弟子で、醍醐寺1世座主・観賢僧正が御影堂を建立したと言われています。
- 913年(延喜13年)に醍醐寺が定額寺(じょうがくじ)になりました。
- 930年(延長8年)に醍醐天皇が崩御し、笠取山に御陵が築かれ、醍醐寺で法会(ほうえ)が営まれました。醍醐天皇の崩御後に第61代・朱雀天皇(すざくてんのう)、第62代・村上天皇(むらかみてんのう)に伽藍の整備が受け継がれ、法華三昧堂・五重塔が建立されたと言われています。
- 936年(承平6年)に五重塔が着工され、951年(天暦5年)に完成したとも言われています。
- 949年(天暦3年)に第61代・朱雀天皇(すざくてんのう)の勅願によって下醍醐に法華三昧堂が創建されました。
- 1088年(寛治2年)に清瀧宮が醍醐寺の鎮守社として上醍醐に祀られました。
- 1097年(永長2年)に下醍醐に上醍醐の清瀧宮から分祀して清瀧宮が祀られました。
- 1115年(永久3年)に醍醐寺14代座主・勝覚僧正が塔頭(たちゅう)・三宝院(さんぼういん)を創建しました。
- 1118年(元永元年)に醍醐寺で最初の桜会が行われました。
- 平安時代後期に白河上皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))や源氏から帰依され、多くの堂宇が建立されたと言われています。
- 平安時代以降に三宝院(灌頂院)・理性院・金剛王院(一言寺)・無量光院・報恩院の醍醐五門跡が建立され、醍醐五門跡から座主が選ばれました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 鎌倉時代に醍醐寺が真言宗事相の根本道場として権威を高めました。
- 永仁年間(1293年~1299年)に釈迦堂(金堂)が焼失しました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 南北朝時代に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が醍醐寺65代座主(ざす)・賢俊(けんしゅん)を帰依しました。また醍醐寺74代座主・満済(まんさい・まんぜい)が室町幕府において、黒衣の宰相(こくいのさいしょう)と言われました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 室町時代中期の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火などによって金堂などが焼失し、下醍醐は荒廃して五重塔だけが残されたと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 桃山時代に醍醐寺80代座主・義演(ぎえん)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から帰依され、1598年(慶長3年)の醍醐の花見に伴って、醍醐寺が中興されました。豊臣秀吉の命により、紀州・満願寺(まんがんじ)の本堂が醍醐寺に移築されて現在の本堂が再建され、五重塔が修理されました。豊臣秀吉没後に正室・北政所(きたのまんどころ)や子・豊臣秀頼(とよとみひでより)から帰依され、豊臣秀頼が開山堂・如意輪堂・仁王門などを再建しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1613年(慶長18年)に江戸幕府から醍醐寺の塔頭・三宝院に属する修験道(しゅげんどう)が当山派として許可されました。
- 江戸時代に高演座主が修験道(山伏)3千名を伴って、2回大峯山(おおみねさん)入峰を行い、修験道興隆を計りました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などにより、醍醐寺は寺領などを失いました。ただ寺宝は流出を免れました。
- 1932年(昭和7年)に五大堂が焼失しました。1940年(昭和15年)に五大堂が再建されました。
- 1935年(昭和10年)に霊宝館が開館しました。
- 1939年(昭和14年)に山火事によって上醍醐の清滝宮本殿・経蔵・准胝堂が焼失しました。1968年(昭和43年)に准胝堂が再建されたが、2008年(平成20年)に落雷によって准胝堂が再び焼失しました。
- 1994年(平成6年)に醍醐寺はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
【醍醐寺の開山とされる理源大師・聖宝】
理源大師・聖宝は832年(天長9年)に讃岐国(香川県丸亀市本島・正覚院)で生まれました。847年(承和14年)で東大寺に入り、弘法大師・空海の実弟・真雅に師事して出家しました。その後元興寺の円宗・願暁から三論宗、東大寺の平仁から法相宗、東大寺の玄永に華厳宗を学びました。872年(貞観13年)に真雅から無量寿法を受け、874年(貞観16年)に醍醐寺を創建しました。880年(元慶4年)に弘法大師・空海の甥・真然に学んで両部大法を受け、884年(元慶8年)に東寺二長者・源仁に伝法灌頂を授けられました。887年(仁和3年)に朝廷から正式に伝法灌頂職位を授けられ、895年(寛平7年)に東寺二長者になり、896年(寛平8年)に東寺別当を兼ね、906年(延喜6年)に東寺一長者になりました。理源大師・聖宝は修験道の開祖とされる役行者・役小角の故事を慕って、日ごろ山に登り、川を渡って山野で修業し、修験道の基礎を築いたことから「修験道の醍醐寺」とも言われています。なお理源大師・聖宝は909年(延喜9年)に亡くなりました。
【醍醐寺 備考】
*参考・・・醍醐寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ