醍醐寺報恩院・醍醐寺見どころ

醍醐寺報恩院

●醍醐寺報恩院はかつて鎌倉時代前期に第35世座主・憲深僧正(けんじんそうじょう)が上醍醐にあった極楽坊を活動拠点とし、報恩院と名付けたのが始まりです。その後鎌倉時代中期に後宇多法皇(第91代・後宇多天皇)の命によって下醍醐に移され、明治時代に現在の場所に移されました。
第35世座主・憲深僧正は鎌倉時代初期の1192年(建久3年)に中納言・藤原成範(ふじわらのしげのり)の孫、侍従・藤原通成(ふじわらのなりみち)の子として生まれました。叔父で、醍醐寺座主・成賢(じょうけん)に師事し、1214年(建保2年)に醍醐寺の塔頭・三宝院(さんぼういん)で灌頂(かんじょう)を受けました。1251年(建長3年)に勝尊(しょうそん)の後を継いで醍醐寺座主に就任しました。1255年(建長7年)に実深(じつじん)に醍醐寺座主を譲り、1256年(建長8年)に権僧正(ごんのそうじょう)になりました。憲深僧正は醍醐寺報恩院に住したことからその法流は報恩院流と言われました。憲深僧正は「大法外儀(たいほうげぎ)」・「報恩院記」を記しました。なお憲深僧正は1263年(弘長3年)10月9日に72歳で亡くなりました。
第91代・後宇多天皇は鎌倉時代の1267年(文永4年)12月17日に第90代・亀山天皇と左大臣・洞院実雄(とういんさねお)の娘・洞院佶子(とういんきつし)の第2皇子として生まれました。1268年(文永5年)に祖父・後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)の意志によって8か月で立太子し、1274年(文永11年)に8歳で第90代・亀山天皇から譲位されて第91代・後宇多天皇になり、父・亀山上皇が院政を行いました。1275年(建治元年)に持明院統(じみょういんとう・北朝)の後深草上皇(第89代・後深草天皇)が大覚寺統(だいかくじとう・南朝)の天皇が続くことを不満を持ち、鎌倉幕府に働き掛けて後深草上皇の第2皇子・熈仁親王(第92代・伏見天皇)が皇太子になり、1286年(弘安9年)に第1皇子・邦治親王(第94代・後二条天皇)が親王宣下を受けたが、1287年(弘安10年)に21歳で皇太子・熈仁親王(第92代・伏見天皇)に譲位しました。鎌倉幕府は後持明院統と大覚寺統による両統迭立案を提案しました。1307年(徳治2年)に後深草上皇の皇女で、寵妃の遊義門院(れい子内親王)が亡くなると仁和寺(にんなじ)で落飾して金剛性と称し、大覚寺に入寺して御所とし、大覚寺門跡になりました。なお第91代・後宇多天皇は1324年(元亨4年)7月16日に崩御しました。
●醍醐寺報恩院には本尊・不動明王が安置されています。報恩院では毎日堂内で護摩が焚かれ、家内安全・商売繁盛・厄除招福などを祈願し、堂前で自動車交通安全を祈願しています。
不動明王は密教の根本尊である大日如来(だいにちにょらい)の化身とされ、五大明王(降三世明王(ごうざんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう))の中心となる明王です。大日如来が衆生を教化する際、通常の姿では教化できないので、忿怒相(ふんぬそう)をもって現れたとされています。不動明王は背に火炎を背負い、右手に悪を断ち切る剣、左手に救済の索を持ち、全ての悪と煩悩を抑え、全ての生あるものを救うと言われています。不動明王はヒンドゥー教の最高神・シヴァ神が起源とされ、平安時代初期の804年(延暦23年)に遣唐使として唐に渡った真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が806年(大同元年)に密教とともに唐から不動明王の図像を持ち帰ったと言われています。
醍醐寺見どころ

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