醍醐寺清滝宮本殿・拝殿・醍醐寺見どころ

醍醐寺清滝宮本殿・拝殿

●醍醐寺清滝宮拝殿は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財、1954年(昭和29年)3月20日に国宝に指定されました。
●醍醐寺清滝宮拝殿は室町時代中期の1434年(永享6年)に再建されました。醍醐寺清滝宮本殿は1939年(昭和14年)に山火事で焼失し、1957年(昭和32年)に再建されました。醍醐寺清滝宮は真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が唐(中国)の長安・青龍寺(せいりゅうじ)から勧請した密教の守護神・清滝権現(せいりゅうごんげん・清瀧権現)を祀っています。
清滝権現(清瀧権現)は弘法大師・空海の遺告によるとインド神話に登場する天龍八部衆に属する八大竜王(はちだいりゅうおう)に数えられる沙掲羅(しゃがら)の第3王女・善女龍王とされています。龍には善悪あるが、善女龍王は害を加えない善龍とされ、密教を守護する唐(中国)の長安・青龍寺に飛来し、鎮守(守護神)・清龍になりました。弘法大師・空海が帰国する際に清龍が船中に現れ、大宰府・観世音寺(かんぜおんじ)、和泉国・槇尾山寺(まきおさんじ)を経て、弘法大師・空海が入った洛西の高雄山(たかおやま)山麓に勧請されました。清龍は海を渡ったことから龍の字に「さんずい」を加えられました。清瀧は複数の寺院を巡り、900年(昌泰3年)頃に醍醐寺山山頂に降臨して留まり、その後醍醐寺に伝えられる真言密教を守護する女神になりました。なお清滝権現は本地仏が准胝観音(じゅんでいかんのん)・如意輪観音(にょいりんかんのん)とされています。
青龍寺は古墳時代にあたる582年(開皇2年)に創建され、当初霊感寺と言われていました。621年(武徳4年)に一度廃寺となったが、662年(龍朔2年)に再興され、観音寺に改められました。711年(景雲2年)に青龍寺に再度改められ、その後真言八祖の第七祖・恵果(えか)が住持し、弘法大師・空海が密教を学びました。845年(会昌5年)の会昌の廃仏によって再び廃寺になり、852年(大中6年)に一旦復興し、護国寺に改められました。しかし五代十国時代の動乱によって長安が急速に寂びれ、三度廃寺になりました。1982年以来、西安人民政府が発掘調査を行い、日本からの寄贈によって空海記念碑・恵果空海記念堂が建立されました。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ正確な誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
醍醐寺見どころ

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