醍醐寺観音堂・醍醐寺見所(修学旅行・観光)

醍醐寺観音堂

●醍醐寺観音堂は1930年(昭和5年)に醍醐天皇一千年御忌を記念し、実業家・山口玄洞(やまぐちげんどう)の寄進によって建立されました。観音堂はかつて大講堂だったが、准胝堂が焼失したことから西国三十三所の第11番札所が移されました。観音堂は林泉などとともに大伝法院と言われています。
山口玄洞は江戸時代末期(幕末)の1863年(文久3年)11月20日に医師・山口寿安の長男として備後国尾道久保町(広島県尾道市久保)に生まれました。1871年(明治4年)9歳から愛媛岩城島の漢学塾・知新館に学び、1877年(明治10年)に父・山口寿安が急死すると退塾して尾道に戻って行商を始めました。1878年(明治11年)に大阪心斎橋筋の洋反物店・土居善で丁稚奉公を始めたが、1881年(明治14年)に土居善が倒産し、そこでの縁から鳥取で商いを始めました。1882年(明治15年)に大阪伏見町(大阪市中央区)で洋反物仲買・山口商店を開業し、徐々に規模を拡大し、1894年(明治27年)からの日清戦争で軍需品の洋反物が一層売れました。1896年(明治29年)34歳で山口家四代目として家名を継ぎ、玄洞を襲名しました。1904年(明治37年)に多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選されたが、1906年(明治39年)に辞任しました。日露戦争以降も業績を伸ばし、三十四銀行取締役・大阪織物同業組合初代組長・共同火災監査役などを歴任しました。1917年(大正6年)56歳で実業家を引退し、京都で静養生活に入りました。山口玄洞は信仰に没頭し、資産の多くを寄付に使いました。寄付は神護寺(じんごじ)の金堂・多宝塔・龍王神堂、知恩寺(ちおんじ)の修道院本堂・表門などに使われたり、日本赤十字社・早稲田大学・京都帝国大学に使われたりしました。記録に残る主なものだけでも147件の寄付・寄進をしています。なお山口玄洞は1937年(昭和12年)1月10日に亡くなりました。
第60代・醍醐天皇は平安時代前期の885年(元慶9年)2月6日に第59代・宇多天皇と女御・藤原胤子(ふじわらのいんし)の第1皇子として生まれました。第59代・宇多天皇は臣籍に降下して源定省(みなもとのさだみ)と称していたことから源維城(みなもとのこれざね)として生まれました。887年(仁和3年)に父・源定省が皇籍復帰して第59代・宇多天皇に即位すると皇族に列しました。893年(寛平5年)に立太子し、897年(寛平9年)に13歳で元服して第60代・醍醐天皇に即位しました。父である第59代・宇多天皇から帝王の心得を記した「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」を与えられ、それに従って左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)と右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を重用して政務を任せました。しかし901年(昌泰4年)に藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真が大宰府に左遷される昌泰の変が起こると藤原時平を重用しました。第60代・醍醐天皇の治世は形式上摂関を置かずに天皇親政で、後世に「延喜の治」と称されました。ちなみに村上天皇の治世とともに「延喜・天暦の治」と称されました。第60代・醍醐天皇は治世中に国史「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」・勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)」・三代格式「延喜格式(えんぎかくしき)」を編纂させました。930年(延長8年)7月に菅原道真の祟りとも言われる清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)が起こると体調を崩し、10月16日に皇太子・寛明親王(第61代天・朱雀天皇)に譲位し、7日後の10月23日に出家とともに崩御しました。
【醍醐寺 備考】
*参考・・・京都世界遺産・醍醐寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●醍醐寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
醍醐寺歴史(聖宝・醍醐天皇・豊臣秀吉)
●醍醐寺の見どころ(金堂・五重塔など)を紹介しています。
醍醐寺見どころ(金堂・五重塔など)

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