醍醐寺金堂・醍醐寺見どころ

醍醐寺金堂

●醍醐寺金堂は1908年(明治41年)8月1日に国の重要文化財、1954年(昭和29年)3月20日に国宝に指定されました。
●醍醐寺金堂は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の発願により、平安時代後期(1086年~1184年)に建立され、鎌倉時代に改修された紀州(和歌山)湯浅・満願寺(まんがんじ)の本堂が1598年(慶長3年)から移築が開始され、豊臣秀吉没後の1600年(慶長5年)に落慶しました。金堂は平安時代中期の926年(延長4年)に第60代・醍醐天皇の御願によって建立され、釈迦堂(しゃかどう)と言われていたが、鎌倉時代後期の永仁年間(1293年~1299年)・室町時代中期の文明年間(1469年~1487年)の2度焼失しました。ちなみに文明年間は応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の際に大内氏によって焼かれました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
一般的に金堂は本堂で、本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
満願寺は12世紀後半(平安時代後期~鎌倉時代初期)に後白河法皇(第77代・後白河天皇)の御願寺として創建されたとも言われています。関白・豊臣秀吉は紀州征伐の際、守護・畠山氏の家臣・白樫氏が支配する白樫城(満願寺城)と満願寺などを焼き討ちする予定であったが、醍醐寺第80代座主・義演(ぎえん)が醍醐寺金堂の再建を望んでいたことから満願寺の本堂を差し出すことにより、焼き討ちを回避しました。なお義演は豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、東寺で仁王経大法会を修しました。また豊臣秀吉も度々醍醐寺を訪れ、豊臣秀吉・秀頼親子は醍醐寺・三宝院の復興を援助しています。
●醍醐寺金堂は正面約21メートル(桁行七間)・奥行き約17メートル(梁間五間)で、本尊・薬師如来坐像(重要文化財)、日光菩薩、月光菩薩、四天王像(平安時代)を安置しています。
醍醐寺見どころ

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