醍醐寺三宝院宝篋印塔・醍醐寺見どころ(修学旅行)

醍醐寺三宝院宝篋印塔

●醍醐寺三宝院宝篋印塔は1956年(昭和31年)6月28日に国の重要文化財に指定されました。
●醍醐寺三宝院宝篋印塔は醍醐寺南総門から南方約400メートルにある三宝院墓地に建立されています。三宝院墓地は醍醐寺第65代座主・賢俊(けんしゅん)が14世紀前半に再興し、住房とした菩提寺があった場所とも言われています。宝篋印塔は寺伝によると醍醐寺第65代座主・賢俊の菩提を弔う為に建立されたとも言われています。宝篋印塔は鎌倉時代末期の様式を伝えるもので、壇上積み(だんじょうづみ)の上に更に二重の壇を積み、蓮座(れんざ)と請座(うけざ)を設けた上に建立されています。請座の側面には走獅子(しし)と牡丹(ぼたん)の文様が彫られています。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は墓塔・供養塔などに用いられる仏塔の一種です。宝篋印塔は中国・十国呉越の最後の王・銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って諸国に配った8万4千塔が起源とも言われています。なお8万4千塔はインドのアショーカ王がお釈迦様の入滅後に立てられた8本の舎利塔の内、7本からお釈迦様の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を取り出し、新たに8万4千基の小塔に分納して各地に分置したという故事に由来しています。
賢俊は鎌倉時代後期の1299年(正安元年)に権大納言(ごんだいなごん)・日野俊光(ひのとしみつ)の子として生まれました。醍醐寺宝池院流(ほうちいん)の賢助(けんじょ)に師事して密教を学び、1322年(元応2年)に今熊野で入壇(受戒)の儀式が行われました。元弘の乱の最中の1331年(元弘元年)に東宮量仁親王(北朝初代・光厳天皇)ら持明院統の皇族が退避していた六波羅探題(ろくはらたんだい)北方・北条仲時(ほうじょうなかとき)邸で青蓮院第17世門跡・尊円法親王(そんえんほうしんのう)や賢助らが国家安穏を祈願する五壇法(ごだんほう)が行われた際、賢助を補佐しました。1333年(元弘3年)に師・賢助が亡くなる際に後継者に指名されました。南北朝時代に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)方に就き、九州で再起した足利尊氏に光厳上皇(北朝初代・光厳天皇)の院宣と錦旗を奏請しました。1336年(延元元年・建武3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の護持僧・文観房弘真(もんかんぼうこうしん)に替わって、第65代醍醐寺座主になり、権大僧正(ごんだいそうじょう)に任じられました。また東寺長者(とうじちょうじゃ)・根来寺(ねごろじ)大伝法院検校(けんこう)・六条八幡宮別当(べっとう)などに相次いで補任されました。また足利尊氏と北朝3代である北朝第2代・光明天皇、北朝第3代・崇光天皇、北朝第4代・後光厳天皇の護持僧になり、醍醐寺の伽藍を整備し、三宝院を再興しました。1342年(興国3年・康永元年)に法務大僧正に任じられ、足利尊氏の九州鎮定に従いました。賢俊は連歌作者・歌人としても知られ、「賢俊僧正日記」を記しました。なお賢俊は1357年(正平12年・延文2年)8月31日に亡くなりました。
醍醐寺見どころ

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