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三宝院庭園・三宝院見所(修学旅行・観光)
三宝院庭園
●三宝院庭園は特別名勝・特別史跡に指定されています。
●三宝院庭園は東西棟の殿舎が連なる南側に作庭された池泉回遊式庭園です。三宝院庭園は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が縄張りを行い、庭師である賢庭(けんてい)・与四郎・仙らが作庭したとも言われています。三宝院庭園は安土桃山時代の1598年(慶長3年)から作庭が始まり、同年8月に豊臣秀吉が亡くなると一時中断し、その後豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)の援助によって再開され、同年12月に大部分が完成したと言われています。翌1599年(慶長4年)から義演(ぎえん)が作庭を続け、義演死後の1624年(元和10年)まで続けられ、「天下一」とも賞賛されました。ちなみに賢庭は1602年(慶長7年)から1623年(元和9年)まで作庭に携わりました。三宝院庭園は「義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき)」に作庭の経過が細かく記されています。三宝院庭園には聚楽第から運ばれ、天下の名石とも言われる藤戸石(阿弥陀三尊)・亀島・鶴島・賀茂の三石・三段の滝などがあります。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長(おだのぶなが)に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)などの数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城(ながはまじょう)城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、太閤検地(たいこうけんち)・刀狩り(かたながり)・惣無事令(そうぶじれい)などの政策を行いました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入り(中国入り)を目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
義演は1558年(永禄元年)10月1日に二条家第14代目当主・二条晴良(にじょうはるよし)と伏見宮貞敦親王(ふしみのみやさだあつしんのう)の王女・位子女王(いしじょおう)の子として生まれました。室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の猶子になり、「義」の一字を与えられました。1564年(永禄7年)に三宝院門跡・義堯(ぎぎょう)の後継者として決定し、1571年(元亀2年)に報恩院の雅厳(がげん)を戒師として得度し、堯助(ぎょうじょ)・雅厳に師事し、同年に大僧都(だいそうず)に任じられました。1576年(天正4年)に醍醐寺第80代座主になり、1579年(天正7年)に大僧正(だいそうじょ)に任じられ、1585年(天正13年)に准三后に宣下され、1594年(文禄3年)に東寺長者になりました。義演は関白・豊臣秀吉と豊臣秀頼親子の援助を受け、三宝院を復興しました。なお義演は1626年(寛永3年)6月15日に亡くなりました。
池泉回遊式庭園は大きな池を中心に築山や池の中に小島・橋・名石などを配し、池の周囲に設けられた園路を回遊して鑑賞します。池泉回遊式庭園では休憩所・展望所・茶亭・東屋なども設けられます。なお回遊式庭園は室町時代に禅宗寺院、江戸時代に大名によって多く作庭され、日本庭園の集大成とも位置付けられています。
【三宝院 備考】
*参考・・・三宝院(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●三宝院の見どころ(表書院・唐門など)を紹介しています。
三宝院見どころ(表書院・唐門など)