醍醐寺清滝宮本殿・拝殿・醍醐寺見どころ

醍醐寺清滝宮本殿・拝殿

●醍醐寺清滝宮本殿は1954年(昭和29年)9月17日に国の重要文化財に指定されました。
●醍醐寺清滝宮本殿は戦国時代(室町時代後期)の1517年(永正14年)に再建されました。清滝宮拝殿は安土桃山時代の1599年(慶長4年)に座主・義演僧正(ぎえんそうじょう)が建立しました。下醍醐の醍醐寺清滝宮は平安時代後期の1097年(永長2年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が唐(中国)の長安・青龍寺(せいりゅうじ)から勧請した密教の守護神・清滝権現(せいりゅうごんげん・清瀧権現)を祀る上醍醐の醍醐寺清滝宮から分身を移して祀られました。
清滝権現(清瀧権現)は弘法大師・空海の遺告によるとインド神話に登場する天龍八部衆に属する八大竜王(はちだいりゅうおう)に数えられる沙掲羅(しゃがら)の第3王女・善女龍王とされています。龍には善悪あるが、善女龍王は害を加えない善龍とされ、密教を守護する唐(中国)の長安・青龍寺に飛来し、鎮守(守護神)・清龍になりました。弘法大師・空海が帰国する際に清龍が船中に現れ、大宰府・観世音寺(かんぜおんじ)、和泉国・槇尾山寺(まきおさんじ)を経て、弘法大師・空海が入った洛西の高雄山(たかおやま)山麓に勧請されました。清龍は海を渡ったことから龍の字に「さんずい」を加えられました。清瀧は複数の寺院を巡り、900年(昌泰3年)頃に醍醐寺山山頂に降臨して留まり、その後醍醐寺に伝えられる真言密教を守護する女神になりました。なお清滝権現は本地仏が准胝観音(じゅんでいかんのん)・如意輪観音(にょいりんかんのん)とされています。
義演僧正は戦国時代(室町時代後期)の1558年(永禄元年)10月1日に二条家第14代目当主・二条晴良(にじょうはるよし)と伏見宮貞敦親王(ふしみのみやさだあつしんのう)の王女・位子の間に生まれました。室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の猶子になり、「義」の一字を与えられました。1564年(永禄7年)に醍醐寺の塔頭・三宝院(さんぼういん)の門跡・義堯(ぎぎょう)の後継者とされたが、義堯の急逝によって先送りされ、1569年(永禄12年)に醍醐寺に入って深応・雅厳に師事し、1571年(元亀2年)に得度して大僧都(だいそうず)になりました。1575年(天正3年)に醍醐寺金剛輪院(こんごうりんいん)を再興し、1576年(天正4年)に醍醐寺第80代座主になりました。1579年(天正7年)に大僧正(だいそうじょう)になり、1585年(天正13年)に准三后宣下を受け、1594年(文禄3年)に東寺長者(とうじちょうじゃ)になりました。1592年(天正20年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が朝鮮出兵を行う際に東寺で仁王経大法会を修し、1598年(慶長3年)の方広寺大仏開眼供養の際に呪願師を務めました。また豊臣秀吉の帰依を受けて三宝院を復興しました。豊臣秀吉没後に東寺の後七日御修法を再興し、真言宗の興隆に力を尽くしました。なお義演僧正は1626年(寛永3年)6月15日に亡くなりました。
●醍醐寺清滝宮本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
醍醐寺見どころ

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