醍醐寺鐘楼・醍醐寺見どころ(修学旅行)

醍醐寺鐘楼

●醍醐寺鐘楼は上醍醐・下醍醐に建立されています。下醍醐の鐘楼(観音堂横)は1930年(昭和5年)に醍醐天皇一千年御忌を記念し、実業家・山口玄洞(やまぐちげんどう)の寄進によって建立されました。下醍醐の鐘楼は林泉(りんせん)などとともに大伝法院(だいでんぽういん)と言われています。なお醍醐寺では例年12月31日に除夜の鐘が行われ、参拝者も鐘を撞くことができます。ちなみに12月31日には大晦日法要・年越しソバの接待も行われます。(要確認)
除夜の鐘は中国・宋(960年~1279年)末期頃に行われていた鬼払いの文化が起源と言われ、鎌倉時代頃に日本に伝わったと言われています。室町時代に仏教行事として一般化され、江戸時代に多くの寺院で行われるようになったと言われています。除夜の鐘では12月31日の大晦日(おおみそか)に煩悩(ぼんのう)を除去し、清らかな心で新年を迎える為、梵鐘(ぼんしょう)を108回撞きます。108は煩悩の数、一年間、また四苦八苦を表すとも言われています。煩悩は人の心身を悩まし・乱し・惑わし・汚したりするもので、智慧を妨げるものとも言われています。ちなみに煩悩は6種の根本煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)・20種の随煩悩(忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・驕・無慚・無愧・掉挙・昏沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知)などに分類されるそうです。なお除夜の鐘では一般的に108回の内、107回は大晦日(旧年)に撞き、最後の1回は1月1日(新年)に撞くことが多いそうです。
山口玄洞は江戸時代末期(幕末)の1863年(文久3年)11月20日に医師・山口寿安の長男として備後国尾道久保町(広島県尾道市久保)に生まれました。1871年(明治4年)9歳から愛媛岩城島の漢学塾・知新館に学び、1877年(明治10年)に父・山口寿安が急死すると退塾して尾道に戻って行商を始めました。1878年(明治11年)に大阪心斎橋筋の洋反物店・土居善で丁稚奉公を始めたが、1881年(明治14年)に土居善が倒産し、そこでの縁から鳥取で商いを始めました。1882年(明治15年)に大阪伏見町(大阪市中央区)で洋反物仲買・山口商店を開業し、徐々に規模を拡大し、1894年(明治27年)からの日清戦争で軍需品の洋反物が一層売れました。1896年(明治29年)34歳で山口家四代目として家名を継ぎ、玄洞を襲名しました。1904年(明治37年)に多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選されたが、1906年(明治39年)に辞任しました。日露戦争以降も業績を伸ばし、三十四銀行取締役・大阪織物同業組合初代組長・共同火災監査役などを歴任しました。1917年(大正6年)56歳で実業家を引退し、京都で静養生活に入りました。山口玄洞は信仰に没頭し、資産の多くを寄付に使いました。なお山口玄洞は1937年(昭和12年)1月10日に亡くなりました。
●醍醐寺鐘楼は切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
醍醐寺見どころ

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