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醍醐寺薬師堂・醍醐寺見所(修学旅行・観光)
醍醐寺薬師堂
●醍醐寺薬師堂は1901年(明治34年)3月27日に国の重要文化財、1959年(昭和34年)6月27日に国宝に指定されました。
●醍醐寺薬師堂は平安時代後期の1121年(保安2年)に再建されました。薬師堂は上醍醐で唯一平安時代の建物です。薬師堂はかつて平安時代中期の913年(延喜13年)に第60代・醍醐天皇の御願堂として建立されました。薬師堂にはかつて本尊・薬師三尊像(国宝)が安置されていたが、2001年(平成13年)10月の霊宝館リニューアルオープンの際に霊宝館平成館に移され、2012年(平成24年)4月に新しい本尊・薬師三尊が安置されました。
第60代・醍醐天皇は平安時代前期の885年(元慶9年)2月6日に第59代・宇多天皇と女御・藤原胤子(ふじわらのいんし)の第1皇子として生まれました。第59代・宇多天皇は臣籍に降下して源定省(みなもとのさだみ)と称していたことから源維城(みなもとのこれざね)として生まれました。887年(仁和3年)に父・源定省が皇籍復帰して第59代・宇多天皇に即位すると皇族に列しました。893年(寛平5年)に立太子し、897年(寛平9年)に13歳で元服して第60代・醍醐天皇に即位しました。父である第59代・宇多天皇から帝王の心得を記した「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」を与えられ、それに従って左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)と右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を重用して政務を任せました。しかし901年(昌泰4年)に藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真が大宰府に左遷される昌泰の変が起こると藤原時平を重用しました。第60代・醍醐天皇の治世は形式上摂関を置かずに天皇親政で、後世に「延喜の治」と称されました。ちなみに村上天皇の治世とともに「延喜・天暦の治」と称されました。第60代・醍醐天皇は治世中に国史「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)」・勅撰和歌集「古今和歌集(こきんわかしゅう)」・三代格式「延喜格式(えんぎかくしき)」を編纂させました。930年(延長8年)7月に菅原道真の祟りとも言われる清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)が起こると体調を崩し、10月16日に皇太子・寛明親王(第61代天・朱雀天皇)に譲位し、7日後の10月23日に出家とともに崩御しました。
薬師如来(薬師瑠璃光如来・やくしるりこうにょらい)は如来の一尊です。薬師如来は大医王(だいいおう)・医王善逝 (いおうぜんぜい) とも言われています。薬師如来は菩薩時代に衆生の病気を治すなどの十二の大願(十二誓願)を立てて如来となった東方瑠璃光浄土で説法する過去仏(教主)とされています。薬師如来は医王如来とも言われ、一般的に左手に病を癒す為の薬壷(やっこ)を持ち、右手に施無畏(せむい)の印を結んでいます。薬師如来は脇侍(きょうじ)が日光菩薩(にっこうぼさつ)・月光菩薩(がっこうぼさつ)とされ、眷属(けんぞく)である十二神将(じゅうにしんしょう)に守られています。薬師如来は現世利益を与えるとされ、飛鳥時代の680年(天武天皇9年)頃から盛んになったとも言われています。なお十二の大願は光明普照・随意成弁・施無尽仏・安心大乗・具戒清浄・諸根具足・除病安楽・転女得仏・安心正見・苦悩解脱・飲食安楽・美衣満足です。
一般的に薬師堂は薬師如来を祀る仏塔です。薬師如来を本尊とする寺院では本堂・金堂・根本中堂などとも言われています。ちなみに薬師如来を本尊とする寺院は寺号が薬師寺・薬王寺・医王寺などとも言われています。
【醍醐寺 備考】
*参考・・・京都世界遺産・醍醐寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●醍醐寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
醍醐寺歴史(聖宝・醍醐天皇・豊臣秀吉)
●醍醐寺の見どころ(金堂・五重塔など)を紹介しています。
醍醐寺見どころ(金堂・五重塔など)