醍醐寺槍山・醍醐寺見所(修学旅行・観光)

醍醐寺槍山

●醍醐寺槍山は標高約454メートルの醍醐山の中腹のことを言います。槍山では安土桃山時代の1598年(慶長3年)に醍醐の花見が行われた際に花見御殿が建てられ、桜を一望することができたとも言われています。なお槍山から女人堂の間には8棟の茶屋が設けられていたとも言われています。
醍醐山は京都市の南東に位置し、山科盆地南側にあります。醍醐山は一帯が醍醐寺の境内で、シイ・カシなどの常緑樹などが分布しています。なお醍醐山は京都の自然200選に選ばれています。
醍醐の花見は安土桃山時代の1598年(慶長3年)3月15日(新暦の4月20日)に関白・豊臣秀吉が行いました。豊臣秀吉は同年8月18日(新暦の9月18日)に亡くなったことから最後の花見とも言われています。醍醐の花見では豊臣秀吉が豊臣政権の五奉行・前田玄以(まえだげんい)を奉行に任命し、近江(滋賀)・河内(大阪)・大和(奈良)・山城(京都)の畿内から約700本の桜の木を集め、標高約454メートルの醍醐山にある山道両側などに植え、醍醐寺の塔頭・三宝院(さんぼういん)の建物などを建てたり、三宝院庭園を造営したりしました。ちなみに豊臣秀吉は自ら下見の為に醍醐寺へ足繁く通い、三宝院庭園を自ら作庭したとも言われ、聚楽第(じゅらくてい)から天下の名石として名高い藤戸石(ふじといし) が移されました。醍醐の花見では豊臣秀吉を始め、豊臣秀頼・豊臣秀吉の正室である北政所・豊臣秀吉の側室である淀殿(西の丸殿)・松の丸殿・三の丸殿・加賀殿、そして前田利家と正室であるまつ(芳春院)など諸大名など約1,300人が参加しました。醍醐の花見では女房女中衆など女性に2回の衣装替えが命じられ、一人3着ずつ着物が新調されたと言われています。醍醐の花見では淀殿と松の丸殿が杯を受ける順番を争い、客人であるまつが「歳の順から言えばこの私。」とその場をうまく取り治めたと言われています。醍醐の花見は九州平定直後の1587年(天正15年)10月1日(新暦の11月1日)に行われた北野大茶湯と双璧を成す催し物として知られています。
豊臣秀吉は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院)の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城の支城・頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
【醍醐寺 備考】
*参考・・・京都世界遺産・醍醐寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●醍醐寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
醍醐寺歴史(聖宝・醍醐天皇・豊臣秀吉)
●醍醐寺の見どころ(金堂・五重塔など)を紹介しています。
醍醐寺見どころ(金堂・五重塔など)

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