大覚寺勅封心経殿・大覚寺見どころ(修学旅行)

大覚寺勅封心経殿

●大覚寺勅封心経殿は1925年(大正14年)に後宇多法皇(第91代・後宇多法皇)600年、第99代・後亀山天皇500年の御遠忌記念事業として、奈良・法隆寺(ほうりゅうじ)の夢殿(ゆめどの)を模して再建されました。なお勅封は天皇の勅命によって封印することです。
夢殿は法隆寺東院創立を記す「法隆寺東院縁起」によると奈良時代の739年(天平11年)に行信僧都(ぎょうしんそうず)が第31代・用明天皇の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)を偲び、聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮(いかるがのみや)の旧地に建立した言われています。
法隆寺(斑鳩寺)は第31代・用明天皇が自らの病気平癒を祈願する為に発願したが、実現しないまま崩御し、飛鳥時代の607年(推古天皇15年)に用明天皇の妹である第33代・推古天皇と用明天皇の第2皇子である聖徳太子(厩戸皇子)が用明天皇の遺志を継いで創建し、本尊・薬師如来を安置したのが起源と言われています。
●大覚寺勅封心経殿には第52代・嵯峨天皇、北朝第4代・後光厳天皇、第102代・後花園天皇、第105代・後奈良天皇、第106代・正親町天皇、第119代・光格天皇の勅封心経が奉安されています。また勅封心経殿には薬師如来像も安置されています。平安時代前期の818年(弘仁9年)に都で疫病が流行した際、第52代・嵯峨天皇が弘法大師・空海の勧めで、世の平安を祈って般若心経(はんにゃしんぎょう)を写経しました。818年(弘仁9年)は十干十二支(じっかんじゅうにし)の戊戌(ぼじゅつ)に当たることから60年に一度の戊戌の年に寺院関係者らに公開されました。
第52代・嵯峨天皇は786年(延暦5年)10月3日に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の第2皇子として生まれました。799年(延暦18年)2月に元服し、君主の器量を持っていたことなどから父・桓武天皇に愛されたと言われています。806年(延暦25年)に兄・安殿親王が第51代・平城天皇に即位すると皇太弟に立てられました。809年(大同4年)に兄で、第51代・平城天皇から譲位されて第52代・嵯峨天皇に即位し、甥で、第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王を皇太子にしました。しかし810年(弘仁元年)に平城上皇が復位を試みた薬子の変(くすこのへん)が起こり、皇太子・高岳親王が廃され、異母弟・大伴親王(第53代・淳和天皇)が皇太弟に立てられました。823年(弘仁14年)に大伴親王(第53代・淳和天皇)に譲位し、833年(天長10年)に離宮・嵯峨院に御所を新造し、大沢池が造られました。第52代・嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)・新撰姓氏録(しょうじろく)などを編纂させ、蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)などを設けて律令制の補強しました。また第52代・嵯峨天皇は能筆で知られ、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)と橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられました。なお第52代・嵯峨天皇は842年(承和9年)8月24日に崩御しました。
●大覚寺勅封心経殿は鉄筋コンクリート造の八角堂で、鋼板葺・銅板葺です。大覚寺勅封心経殿は内部に第123代・大正天皇即位式に使われた二条離宮(二条城)の第一車寄の用材が使われました。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
大覚寺見どころ

ページ上部へ戻る