大覚寺勅使門・大覚寺見所(修学旅行・観光)

大覚寺勅使門

●大覚寺勅使門は江戸時代後期の嘉永年間(1848年~1855年)に再建されました。勅使門は本来皇室関係者にしか開けられないが、門跡出仕の晴れの法会などに開けられます。
一般的に勅使門は天皇の使者・勅使が寺院に参向した際に出入りに使われる門です。ちなみに使者は上皇の場合に院使(いんし)、皇后の場合に皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の場合に中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の場合に皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の場合に女院使(にょいんし)と言われます。
●大覚寺勅使門は「おなごりの門」とも言われています。江戸時代後期に大覚寺最後の宮門跡(住職)・有栖川宮慈性入道親王(ありすがわのみやじしょうにゅうどうしんのう)は江戸幕府から勤皇討幕の疑いを掛けられ、真言宗の大覚寺とは異なる宗派で、徳川家菩提寺である天台宗(てんだいしゅう)の輪王寺(りんのうじ)の住職を兼務するように命じられました。大覚寺をこよなく愛し、この地を離れたくなかったが、幕命に背くこともできないことから勅使門から江戸に向かい、何度も、何度も振り返られたことから勅使門は「おなごりの門」とも言われています。輪王寺で5年過ごし、輪王寺を弟・公現法親王(くげんほうしんのう)に譲り、隠居しての帰山が認められたが、出発直前の1867年(慶応3年)11月24日に55歳で亡くなりました。輪王寺にある有栖川宮慈性入道親王の墓は大覚寺の方角を向いて建てられているそうです。
●大覚寺勅使門は四脚門(しきゃくもん)で、切妻造(きりづまづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。大覚寺勅使門は前後に軒唐破風(のきからはふ)付です。大覚寺勅使門は全体葉素木(しらき)造りだが唐破風の部分のみ漆を塗り、鍍金(ときん)の飾り装飾を施している。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。なお765年(天平宝字9年・天平神護元年)に奈良・西大寺(さいだいじ)で銅板葺が用いられたのが最古の記録とも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
【大覚寺 備考】
*参考・・・京都・大覚寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●大覚寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
大覚寺歴史(嵯峨天皇・空海・正子内親王)
●大覚寺の見どころ(正寝殿・大沢池など)を紹介しています。
大覚寺見どころ(正寝殿・大沢池など)

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