大覚寺五大堂・大覚寺見どころ

大覚寺五大堂

●大覚寺五大堂は江戸時代後期の天明年間(1781年~1789年)に再建されました。大覚寺五大堂はかつて平安時代に第52代・嵯峨天皇が天下泰平・五穀豊穣を祈念し、伽藍の中心部に建立したと言われています。1925年(大正14年)に御影堂が現在の場所に移されると五大堂も現在の場所に移されました。なお大覚寺五大堂は大覚寺の本堂です。
一般的に本堂は本尊仏を安置する仏堂です。本堂は金堂・根本中堂(中堂)・仏殿などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。
第52代・嵯峨天皇は奈良時代後期の786年(延暦5年)10月3日に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の第2皇子として生まれました。799年(延暦18年)2月に元服し、君主の器量を持っていたことなどから父・桓武天皇に愛されたと言われています。803年(延暦22年)に三品(さんぼん)中務卿(なかつかさきょう)になり、806年(延暦25年)に弾正尹(だんじょうのいん)になり、806年(延暦25年)に兄・安殿親王が第51代・平城天皇に即位すると皇太弟に立てられました。809年(大同4年)に兄で、第51代・平城天皇から譲位されて第52代・嵯峨天皇に即位し、甥で、第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王を皇太子にしました。しかし810年(弘仁元年)に平城上皇が復位を試みた薬子の変(くすこのへん)が起こり、皇太子・高岳親王が廃され、異母弟・大伴親王(第53代・淳和天皇)が皇太弟に立てられました。823年(弘仁14年)に大伴親王(第53代・淳和天皇)に譲位し、833年(天長10年)に大覚寺の前身である離宮・嵯峨院に御所を新造し、大沢池が造られました。第52代・嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)・新撰姓氏録(しょうじろく)などを編纂させ、葵祭(あおいまつり)に奉仕する賀茂斎院(かものさいいん)を設置し、蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)などを設けて律令制の補強しました。また第52代・嵯峨天皇は能筆で知られ、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)と橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられました。なお第52代・嵯峨天皇は842年(承和9年)8月24日に崩御しました。
●大覚寺五大堂にはかつて本尊として平安時代後期の円派仏師・明円(みょうえん)作の五大明王像(重要文化財)が安置されていたが、現在霊宝館に移され、1975年(昭和50年)に人間国宝である松久朋琳(まつひさほうりん)・松久宗琳(まつひさそうりん)親子が造仏した五大明王像が本尊として安置されています。大覚寺五大堂には大沢池に面する東面に張り出すような観月台(濡れ縁)があります。
五大明王(五大尊・五忿怒)は魔を降伏させる不動明王(ふどうみょうおう)・降三世明王(ごうさんぜみょうおう)・軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)・大威徳明王(だいいとくみょうおう)・金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)です。五大明王は平安時代前期に密教が隆盛すると五壇法(ごだんほう)の本尊として五大明王が祀られるようになりました。仏像では平安時代前期の839年(承和6年)に造仏され、東寺講堂に安置されている五大明王が最古とされています。なお五大明王は不動明王を中心に降三世明王が東方、軍荼利明王が南方、大威徳明王が西方、金剛夜叉明王が北方に配されます。
大覚寺見どころ

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