大覚寺の歴史は正子内親王が嵯峨院を寺院に改めたのが起源
大覚寺の時代別年表と重要人物
大覚寺は876年(貞観18年)に嵯峨天皇の皇女で、淳和天皇の皇后・正子内親王が恒寂入道親王を開山として、離宮・嵯峨院を寺院に改めたのが起源です。嵯峨院では弘法大師・空海が五覚院を建て修法を行っていました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【大覚寺が建立されている場所】
- 大覚寺が建立されている場所は平安時代初期に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が檀林皇后(だんりんこうごう・橘嘉智子(たちばなのかちこ))との成婚の新室である離宮・嵯峨院(さがいん)を造営した場所でした。嵯峨院の名称は唐(中国)の都・長安(ちょうあん)北側にある景勝地・嵯峨山に由来しているとも言われています。嵯峨院では真言宗(しんごんしゅう)の開祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が嵯峨天皇の勅願により、弘法大師・空海が自ら刻んだと言われている五大明王(ごだいみょうおう)を安置する持仏堂五覚院を建立して修法を行いました。ちなみに嵯峨天皇は弘法大師・空海に深く帰依し、816年(弘仁7年)に高野山開創の勅許を与え、823年(弘仁14年)に東寺を下賜しました。大覚寺の前身である嵯峨院の歴史が始まりました。
- 818年(弘仁9年)に大飢饉が起こり、嵯峨天皇は弘法大師・空海の勧めにより、一字三礼の誠を尽くして「般若心経(はんにゃしんぎょう)」を浄書しました。檀林皇后は薬師三尊(やくしさんぞん)像を金泥で浄書しました。弘法大師・空海は嵯峨院の持仏堂五覚院で五大明王に祈願しました。嵯峨天皇の宸筆「般若心経」は60年に一度しか開封できない勅封心経として大覚寺の心経殿に奉安されています。なお大覚寺は写経根本道場として知られるようになります。
- 842年(承和9年)に嵯峨天皇が崩御しました。なお850年(嘉祥3年)に檀林皇后が亡くなりました。
【大覚寺の起源・始まり】
- 大覚寺は876年(貞観18年)に嵯峨天皇の皇女(長女)で、第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇后・正子内親王(まさこないしんのう)が嵯峨天皇の孫で、淳和天皇の第2皇子・恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう・恒貞親王)を開山(初代住職)として離宮・嵯峨院を寺院に改めたのが起源です。第56代・清和天皇(せいわてんのう)から寺号・大覚寺を賜ったと言われています。なお大覚寺の寺院としての歴史が始まりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 879年(元慶3年)に大覚寺開基・正子内親王が亡くなりました。
- 884年(元慶8年)に大覚寺開山・恒寂入道親王が亡くなりました。
- 延喜年間(901年~923年)に宇多法皇(第59代・宇多天皇(うだてんのう))がしばしば大覚寺に行幸して詞宴を催しました。
- 天元年間(978年~983年)に定昭(じょうしょう)が大覚寺3代門跡になり、その後大覚寺20代門跡・良信までの約290年間、法相宗( ほっそうしゅう)の大本山・興福寺(こうふくい)の塔頭(たちゅう)・一乗院(いちじょういん)の兼帯が続きました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1268年(文永5年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))が落飾し、大覚寺21代門跡になりました。
- 1289年(正応2年)に第90代・亀山天皇(かめやまてんのう)が入寺し、大覚寺22代門跡になりました。
- 1307年(徳治2年)に第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう)が出家し、大覚寺23代門跡になりました。なお亀山法皇・後宇多法皇が院政を行ったことから嵯峨御所(さがごしょ)とも言われました。亀山法皇・後宇多法皇に繋がる系統は大覚寺統(だいかくじとう・南朝)と言われ、第89代・後深草天皇(ごふかくさてんのう)に繋がる持明院統(じみょういんとう・北朝)と交代で天皇を輩出しました。なお後宇多法皇は大覚寺の伽藍の整備に尽力したことから中興の祖・大覚寺殿とも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 1336年(延元元年・建武3年)に南朝初代、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が北朝初代・光明天皇(こうみょうてんのう)と室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、大覚寺が足利軍に火を掛けられて焼失しました。
- 1392年(元中9年・明徳3年)に大覚寺正寝殿で南北朝媾和が成立し、南朝第4代で、第99代・後亀山天皇(ごかめやまてんのう)から北朝第6代で、第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器(さんしゅのじんぎ)が引き渡されました。なお1410年(応永17年)に和議の条件が果たされなかったことから後亀山上皇の吉野出奔したが、1416年(応永23年)に戻りました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 1419年(応永26年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の子・義昭が大覚寺31代門跡になりました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、1468年(応仁2年)に大覚寺の伽藍の多くが焼失しました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
- 1534年(天文3年)から大覚寺が安井門跡(やすいもんぜき)蓮華光院(れんげこういん)を兼帯しました。
- 1536年(天文5年)に木沢長政(きざわながまさ)の軍勢によって放火されました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 安土桃山時代に織田信長(おだのぶなが)や関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から大覚寺に寺領が寄進されました。
- 1587年(天正15年)に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が大覚寺に参詣したと言われています。
- 1589年(天正17年)に後陽成天皇の弟で、第36代門跡・空性が衰退した大覚寺の再建を開始し、江戸時代前期の寛永年間(1624年~1644年)にほぼ寺観が整えられました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 江戸時代初期に朝廷から大覚寺が外護されて再建されました。1607年(慶長12年)に後陽成天皇の第5皇子・尊性が大覚寺37代門跡、1651年(慶安4年)に第108代・後水尾天皇の第4皇子・性真親王が大覚寺38代門跡になりました。なお後水尾天皇は1672年(寛文12年)・1674年(延宝2年)・1678年(延宝6年)に参詣したと言われています。
- 1611年(慶長16年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)から大覚寺に寺領が寄進されたと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や上知令により、大覚寺が荒廃して一時無住になったとも言われています。
- 1923年(大正12年)に大沢池・名古曽滝跡が国の名勝に指定されました。
- 1924年(大正13年)に第48代・龍池密雄門跡が心経殿を再建しました。また第123代・大正天皇即位式の饗宴殿を移築して御影堂が建立されました。
- 1950年(昭和25年)に真言宗大覚寺派として、高野山真言宗から独立しました。
【大覚寺の前身・嵯峨院を造営した第52代・嵯峨天皇】
嵯峨天皇は786年(延暦5年)に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏の第2皇子として生まれました。799年(延暦18年)に元服し、君主の器量を持っていたことなどから父・桓武天皇に愛されたと言われています。806年(延暦25年)に兄・安殿親王が第51代・平城天皇に即位すると皇太弟に立てられ、809年(大同4年)に兄・平城天皇から譲位されて第52代・嵯峨天皇に即位し、甥で、兄・平城天皇の第3皇子・高岳親王を皇太子にしました。しかし810年(弘仁元年)に平城上皇が復位を試みた薬子の変が起こり、皇太子・高岳親王が廃され、異母弟・大伴親王(第53代・淳和天皇)が皇太弟に立てられました。823年(弘仁14年)に大伴親王に譲位し、833年(天長10年)に大覚寺の前身である離宮・嵯峨院に御所を新造しました。嵯峨天皇は弘仁格式・新撰姓氏録などを編纂させ、葵祭に奉仕する賀茂斎院を設置し、蔵人所・検非違使などを設けて律令制の補強しました。また第52代・嵯峨天皇は能筆で知られ、弘法大師・空海と橘逸勢とともに三筆に数えられました。なお第52代・嵯峨天皇は842年(承和9年)に崩御しました。
【大覚寺 備考】
*参考・・・大覚寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ