大覚寺名古曽滝跡・大覚寺見どころ

大覚寺名古曽滝跡

●大覚寺名古曽滝跡は国の名勝・国の史跡に指定されています。
●大覚寺名古曽滝跡は平安時代初期に第52代・嵯峨天皇の離宮・嵯峨院の庭園に設けられた滝跡と言われています。名古曽滝跡は京都市内に現存する最古の庭園の遺構とも言われています。名古曽滝は「今昔物語(こんじゃくものがたり)・平安時代末期成立」によると平安時代初期の貴族・画家である百済河成(くだらのかわなり)が作庭したとも言われています。名古曽滝はかつてかなりの水量があったとも言われていたが、平安時代中期に公卿・歌人である藤原公任(ふじわらのきんとう)が「滝の音は絶えて久しくなり成りぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」と詠み、平安時代中期に既に枯れていたとも言われています。また西行(さいぎょう)の和歌「今だにも かかりといひし 瀧つせの その折までは 昔なりけむ」によると滝石が閑院宮(かんいんのみや)に運び去られたとも言われています。なお大覚寺名古曽滝跡では1994年(平成6年)から発掘調査が行われ、1999年(平成11年)に復元が完了しました。
百済河成は奈良時代後期の782年(延暦元年)に生まれたと言われています。百済第28代国王・恵王(けいおう)の後裔で、余時善の子とも言われています。平安時代初期の808年(大同3年)に宮中の警固などを行う武官・左近衛(さこんえ)に任ぜられたが、その後画技に優れていたことから宮中に召し出されました。823年(弘仁14年)に美作権少目(みまさかのごんのしょうさかん)になり、833年(天長10年)に外位(げい)の従五位下に叙せられ、、承和年間(834年~848年)に備中介(びっちゅうのすけ)・播磨介(はりまのすけ)・安芸介(あきのすけ)など地方官を歴任しました。840年(承和7年)に余 (あぐり) に代わる百済朝臣(あそん)姓を賜り、845年(承和12年)に内位(ないい)の従五位下に叙せられました。百済河成は唐(中国)風の絵画技法に習熟し、人物の肖像や山水草木は「自生のごとし(まるで生きているようだ)」と写実的に描いて真に迫ったものとして称賛されました。作品は現存していないが、正史に名を残す最初の画家と言われています。また平安時代前期に巨勢金岡(こせのかなおか)とともに並び称されました。なお百済河成は853年(仁寿3年)9月30日に亡くなりました。
第52代・嵯峨天皇は786年(延暦5年)10月3日に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の第2皇子として生まれました。799年(延暦18年)2月に元服し、君主の器量を持っていたことなどから父・桓武天皇に愛されたと言われています。806年(延暦25年)に兄・安殿親王が第51代・平城天皇に即位すると皇太弟に立てられました。809年(大同4年)に兄で、第51代・平城天皇から譲位されて第52代・嵯峨天皇に即位し、甥で、第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王を皇太子にしました。しかし810年(弘仁元年)に平城上皇が復位を試みた薬子の変(くすこのへん)が起こり、皇太子・高岳親王が廃され、異母弟・大伴親王(第53代・淳和天皇)が皇太弟に立てられました。823年(弘仁14年)に大伴親王(第53代・淳和天皇)に譲位し、833年(天長10年)に離宮・嵯峨院に御所を新造し、大沢池が造られました。第52代・嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)・新撰姓氏録(しょうじろく)などを編纂させ、蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)などを設けて律令制の補強しました。また第52代・嵯峨天皇は能筆で知られ、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)と橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられました。なお第52代・嵯峨天皇は842年(承和9年)8月24日に崩御しました。
大覚寺見どころ

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