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大覚寺大沢池・大覚寺見所(修学旅行・観光)
大覚寺大沢池
●大覚寺大沢池は1923年(大正12年)に国の名勝に指定されました。
●大覚寺大沢池は平安時代前期の814年(弘仁5年)頃に第52代・嵯峨天皇が離宮・嵯峨院を造営する際、中国・洞庭湖(どうていこ)を模して築造したとも言われています。大覚寺大沢池は洞庭湖を模していることから庭湖とも言われています。
第52代・嵯峨天皇は奈良時代後期の786年(延暦5年)10月3日に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の第2皇子として生まれました。799年(延暦18年)2月に元服し、君主の器量を持っていたことなどから父・桓武天皇に愛されたと言われています。803年(延暦22年)に三品(さんぼん)中務卿(なかつかさきょう)になり、806年(延暦25年)に弾正尹(だんじょうのいん)になり、806年(延暦25年)に兄・安殿親王が第51代・平城天皇に即位すると皇太弟に立てられました。809年(大同4年)に兄で、第51代・平城天皇から譲位されて第52代・嵯峨天皇に即位し、甥で、第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王を皇太子にしました。しかし810年(弘仁元年)に平城上皇が復位を試みた薬子の変(くすこのへん)が起こり、皇太子・高岳親王が廃され、異母弟・大伴親王(第53代・淳和天皇)が皇太弟に立てられました。823年(弘仁14年)に大伴親王(第53代・淳和天皇)に譲位し、833年(天長10年)に大覚寺の前身である離宮・嵯峨院に御所を新造し、大沢池が造られました。第52代・嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)・新撰姓氏録(しょうじろく)などを編纂させ、葵祭(あおいまつり)に奉仕する賀茂斎院(かものさいいん)を設置し、蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)などを設けて律令制の補強しました。また第52代・嵯峨天皇は能筆で知られ、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)と橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられました。なお第52代・嵯峨天皇は842年(承和9年)8月24日に崩御しました。
洞庭湖は中国湖南省北東部にある淡水湖です。洞庭湖はかつて八百里洞庭と言われた中国最大の淡水湖だったが、湖南省四大河川と言われる湘江(しょうこう)・資江(しこう)・げん江(げんこう)・れい水(れいすい)が流入し、その堆積物によって縮小しました。ちなみに中国およびアジアで最長の長江(ちょうこう・揚子江(ようすこう))とも運河によって繋がり、洪水を調節する役割もあり、長江からも堆積物が流入しています。洞庭湖は季節ごとにその大きさが変わります。洞庭湖は周辺に瀟湘八景(しょうしょうはっけい)という名勝地があります。
離宮・嵯峨院は第52代・嵯峨天皇が嵯峨に造営した別荘です。嵯峨院は嵯峨山荘・嵯峨別館などとも言われました。第52代・嵯峨天皇は風流を好み、文人を召して詩賦(しふ)を催したと言われています。823年(弘仁14年)に第52代・嵯峨天皇が第53代・淳和天皇に譲位し、834年(承和元年)に嵯峨院内に新造御所を造営し、それまで譲位後の御所であった後院(ごいん)としていた離宮・冷泉院(れいぜいいん)から移り、842年(承和9年)に嵯峨院で崩御しました。
●大覚寺大沢池は奈良の猿沢池(さるさわいけ)・滋賀の石山寺(いしやまでら)とともに三大名月鑑賞地とされています。
猿沢池は奈良時代の749年(天平21年)に造られた周囲約360メートルの人工池です。猿沢池は猿沢池月として、東大寺鐘・春日野鹿・南円堂藤・佐保川蛍・雲居坂雨・轟橋旅人・三笠山雪とともに南都八景に数えられています。
石山寺は奈良時代の747年(天平19年)に東大寺(とうだいじ)開山・別当である華厳宗(けごんしゅう)の僧・良弁僧正(ろうべんそうじょう・良辨)が第45代・聖武天皇の勅願によって創建したとも言われています。
【大覚寺 備考】
*参考・・・京都・大覚寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●大覚寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
大覚寺歴史(嵯峨天皇・空海・正子内親王)
●大覚寺の見どころ(正寝殿・大沢池など)を紹介しています。
大覚寺見どころ(正寝殿・大沢池など)