大覚寺宸殿・大覚寺見どころ(修学旅行)

大覚寺宸殿

●大覚寺宸殿は1927年(昭和2年)4月25日に国の重要文化財に指定されました。
●大覚寺宸殿は江戸時代前期の1619年(元和5年)に第108代・後水尾天皇から中宮・東福門院(とうふくもんいん)の女御御殿(にょうごごてん)を賜って建立されました。大覚寺宸殿では御所の名残りとして右近の橘、左近の梅が配されています。
第108代・後水尾天皇は1596年(文禄5年)6月29日に第107代・後陽成天皇と女御・中和門院(ちゅうかもんいん・近衛前子(このえさきこ))の間に第3皇子として生まれ、1611年(慶長16年)3月27日に第107代・後陽成天皇から譲位されて第108代・後水尾天皇になりました。その後江戸幕府による公家衆法度・勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の制定や東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の入内・およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)・金杯事件などにより、後水尾天皇は1629年(寛永6年)11月8日に江戸幕府への通告しないまま第2皇女・興子内親王(第109代・明正天皇)に譲位し、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇後見人として院政を行いました。また後水尾天皇は1653年(承応2年)から修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)の造営を開始し、1655年(承応4年)に完成しました。なお後水尾天皇は1680年(延宝8年)9月11日に85歳で崩御しました。
東福門院(徳川和子(とくがわまさこ))は江戸時代前期の1607年(慶長12年)10月4日に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と正室・江(ごう)の五女として江戸城大奥で生まれました。江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)は第107代・後陽成天皇に孫娘・徳川和子の入内の内意を伝えたが、先例がないと許可しなかったが、再三の要求によって内諾しました。1612年(慶長17年)に第108代・後水尾天皇が即位し、1614年(慶長19年)に入内宣旨が出されました。しかし1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)の大坂の陣・1616年(元和2年)の徳川家康の死去・1617年(元和3年)の後陽成天皇の崩御が続いて延期され、1618年(元和4年)に女御御殿の造営が開始されたが、第108代・後水尾天皇寵愛の典侍・四辻与津子(お与津御寮人)が賀茂宮(かものみや)を生んだおよつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)が起こり、更に延期されました。その後1620年(元和6年)に14歳で入内し、1623年(元和9年)に興子内親王(第109代・明正天皇)を生みました。1624年(寛永元年)に中宮になり、1626年(寛永3年)に高仁親王、1627年(寛永4年)に男二宮を生んだが、立て続けに早世しました。1629年(寛永6年)に紫衣事件(しえじけん)が起こると第108代・後水尾天皇が突然譲位し、興子内親王が第109代・明正天皇に即位し、東福門院の号を賜りました。東福門院は2皇子・5皇女を生み、江戸幕府と朝廷を献身的に繋いだと言われています。なお東福門院は 1678年(延宝6年)8月2日に亡くなりました。
東福門院の女御御殿は1618年(元和4年)から五味豊直を御殿作事奉行として造営が開始されました。ちなみに1677年(延宝5年)に造営された東福門院の女院御所・奥対面所は夫である第108代・後水尾天皇が造営した修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の中御茶屋・客殿に移築されました。
大覚寺見どころ

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