大覚寺心経宝塔・大覚寺見どころ(修学旅行)

大覚寺心経宝塔

●大覚寺心経宝塔は1967(昭和42年)に第52代・嵯峨天皇心経写経1,150年を記念して建立されました。818年(弘仁9年)に都で疫病が流行した際、第52代・嵯峨天皇が真言宗の宗祖である弘法大師・空海の勧めで、世の平安を祈って般若心経(はんにゃしんぎょう)を写経しました。心経写経は紺色の布に金泥で書かれています。心経写経は天皇の許可がないと開けられない「勅封」とされ、60年に一度の戊戌(ぼじゅつ)の年に寺院関係者らに公開されていたが、2018年(平成30年)が1,200年の節目にあたることから一般公開されました。なお大覚寺心経宝塔は高さ約16メートルで、初層が方形・上層が円形の多宝塔です。
第52代・嵯峨天皇は奈良時代後期の786年(延暦5年)10月3日に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の第2皇子として生まれました。799年(延暦18年)2月に元服し、君主の器量を持っていたことなどから父・桓武天皇に愛されたと言われています。803年(延暦22年)に三品(さんぼん)中務卿(なかつかさきょう)になり、806年(延暦25年)に弾正尹(だんじょうのいん)になり、806年(延暦25年)に兄・安殿親王が第51代・平城天皇に即位すると皇太弟に立てられました。809年(大同4年)に兄で、第51代・平城天皇から譲位されて第52代・嵯峨天皇に即位し、甥で、第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王を皇太子にしました。しかし810年(弘仁元年)に平城上皇が復位を試みた薬子の変(くすこのへん)が起こり、皇太子・高岳親王が廃され、異母弟・大伴親王(第53代・淳和天皇)が皇太弟に立てられました。823年(弘仁14年)に大伴親王(第53代・淳和天皇)に譲位し、833年(天長10年)に大覚寺の前身である離宮・嵯峨院に御所を新造し、大沢池が造られました。第52代・嵯峨天皇は弘仁格式(こうにんきゃくしき)・新撰姓氏録(しょうじろく)などを編纂させ、葵祭(あおいまつり)に奉仕する賀茂斎院(かものさいいん)を設置し、蔵人所(くろうどどころ)・検非違使(けびいし)などを設けて律令制の補強しました。また第52代・嵯峨天皇は能筆で知られ、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)と橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに三筆に数えられました。なお第52代・嵯峨天皇は842年(承和9年)8月24日に崩御しました。
●大覚寺心経宝塔には秘鍵大師(弘法大師)像が安置されています。また基壇内部に弘法大師・空海相伝という「如意宝珠(にょいほうじゅ)の玉」を納めた真珠の小塔も安置されています。
弘法大師・空海は奈良時代の774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と母・阿刀大足(あとのおおたり)の妹の間に生まれました。ただ誕生日は明確ではありません。真言宗(しんごんしゅう)では空海が唐の高僧で、三蔵法師(さんぞうほうし)の一人である不空三蔵(不空金剛・ふくうこんごう)の生まれ変わりと考えられていることから誕生日は不空三蔵の入滅の日である6月15日とされています。789年(延暦8年)に15歳で母方の叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に18歳で官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗(さんろんしゅう)の僧で、東大寺(とうだいじ)別当・勤操(ごんそう)のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安で青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺(こんごうぶじ)創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)3月21日に高野山で亡くなりました。
大覚寺見どころ

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