大仙院書院・大仙院見どころ(修学旅行・観光)

大仙院書院(拾雲軒)

●大仙院書院(拾雲軒)は1962年(昭和37年)6月21日に国の重要文化財に指定されました。
●大仙院書院(拾雲軒)は江戸時代前期の1614年(慶長19年)に建立されました。書院では沢庵宗彭(たくあんそうほう)が宮本武蔵に(みやもとむさし)に剣道の極意を授けたとも言われています。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
沢庵宗彭は安土桃山時代の1573年(天正元年)12月24日に但馬国主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭綱典(あきばつなのり)の次男として但馬国出石に生まれました。10歳で出石・唱念寺(しょうねん)に入って受戒し、1591年(天正19年)に出石・宗鏡寺(すきょうじ)の薫甫宗忠(とうほそうちゅう)に師事しました。1594年(文禄3年)に薫甫宗忠が大徳寺138世住持になると大徳寺の塔頭・三玄院(さんげんいん)に入り、大徳寺111世住持・春屋宗園(しゅんおくそうえん)に師事し、春屋宗園の法弟・一凍紹滴(いっとうしょうてき)の印可を受け、1609年(慶長14年)に37歳で大徳寺153世住持になりました。しかし3日で大徳寺を去り、堺・奈良・京都を遍歴し、宗鏡寺の投淵軒に隠棲しました。1628年(寛永5年)に大徳寺172世住持・正隠宗知 (しょういんそうち)の勅許などを巡る紫衣事件(しえじけん)が起こり、1629年(寛永6年)に出羽国(山形県)上山に流罪になりました。1632年(寛永9年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の死による大赦令が出されて許されました。その後江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が帰依し、1639年(寛永16年)に徳川家光の命によって品川・東海寺(とうかいじ)の開山になりました。1638年(寛永15年)に後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))に講義などを行った際、国師号授与の内示があったが、これを断って代わりに大徳寺1世住持・徹翁義亨(てっとうぎこう)へ追諡を願い出ました。1641年(寛永18年)に徳川家光から紫衣事件の発端となった大徳寺などの寺法を旧に復すことが申し渡され、紫衣も戻されました。沢庵宗彭は沢庵漬けを考案したとも言われています。なお沢庵宗彭は1646年(正保2年)1月27日に江戸で亡くなりました。沢庵宗彭は「墓碑は建ててはならぬ」の遺誡を残したが、宗鏡寺(兵庫県豊岡市出石町)・東海寺(東京都品川区)に墓があります。
●大仙院書院(拾雲軒)は桁行約9.9メートル・梁間約7.2メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
大仙院

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