大徳寺仏殿・大徳寺見どころ

●大徳寺仏殿は1909年(明治42年)4月5日に国の重要文化財に指定されました。
●大徳寺仏殿は江戸時代前期の1665年(寛文5年)に京都の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進によって建立されました。大徳寺仏殿は南北朝時代に大徳寺1世である天応大現国師(てんのうたいげんこくし)・徹翁義亨(てっとうぎこう)が建立したとも言われっているが、室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、室町時代に大徳寺第48世・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)が再建し、1665年(寛文5年)に改めて建立されました。
那波常有の那波家は播磨国那波村(兵庫県相生市那波)にルーツがあり、鎌倉時代末期から安土桃山時代に播磨を支配した赤松氏一族の庶子家・宇野氏が那波と名乗るようになったとも言われています。那波家は江戸時代中期頃(17世紀中頃)、那波常有とその子である那波素順・那波正斎の時代に「京一番の有徳者」と評され、大名・旗本を対象として金融業などを営んでいました。その後江戸に両替店を出店するとともに御用達商人としても活動しました。しかし那波素順・那波正斎は驕り(おごり)高ぶり、京都所司代・板倉重矩(いたくらしげのり)から咎めを受け、罰として宇治橋の架け替えを命ぜられたり、御用達商人として過失があったりし、その後衰微しました。
一般的に仏殿は本尊仏を安置し、礼拝する堂塔です。仏殿は本堂・金堂・根本中堂(中堂)・仏堂などとも言われています。飛鳥時代から平安時代前半に創建された寺院では金堂と言われ、禅宗では仏殿と言われるとこが多いそうです。なお仏殿は禅宗寺院で、仏国土に至る三門(山門)・仏道修行に励む僧堂・僧侶が居住する庫裏(くり)・僧侶が仏教を講義する法堂(はっとう)・浴場である浴室・トイレである東司(とうす)とともに七堂伽藍に数えられています。
●大徳寺仏殿には天井に剥落が進んでいるが、絵師・狩野元信(かのうもとのぶ)が描いた雲龍図があります。また大徳寺仏殿には絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)が描いた障壁画があります。
狩野元信は室町時代の1476年(文明8年)8月28日に狩野派の祖・狩野正信(かのうまさのぶ)の長男または次男として生まれました。10才の時に室町幕府第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)の近侍になり、その後父・狩野正信の跡を受けて室町幕府の御用絵師になりました。狩野元信は父・狩野正信の画風を継承し、漢画(水墨画)と大和絵(土佐派)を融合した新しい画風の大成し、狩野派の基礎を築きました。狩野元信は土佐光信(とさみつのぶ)・雪舟(せっしゅう)とともに本朝三傑と称されています。狩野元信は1513年(永正10年)に室町幕府31代管領・細川高国(ほそかわたかくに)の命で「鞍馬寺縁起絵」を制作し、その後大徳寺(だいとくじ)の塔頭・大仙院(だいせんいん)の障壁画(四季花鳥図8幅)、石山本願寺(いしやまほんがんじ・大坂御坊)の障壁画、妙心寺(みょうしんじ)の塔頭・霊雲院(れいうんいん)の障壁画などを制作しました。また狩野元信は大炊寮(おおいりょう)の次官である大炊助(おおいのすけ)・越前守(えちぜんのかみ)に任ぜられ、1545年(天文14年)頃に僧の位である法眼(ほうげん)に叙されました。なお狩野元信は1559年(永禄2年)11月5日に亡くなりました。
海北友松は1533年(天文2年)に浅井氏(あざいし)の家臣・海北綱親(かいほうつなちか)の五男として生まれました。1535年(天文4年)に2歳で父が戦死したことから禅門に入り、京都・東福寺(とうふくじ)で食事の順序などを大声で唱える喝食(かっしき)として修行し、この時期に狩野派に絵を学んだとも言われています。1573年(天正元年)に織田信長(おだのぶなが)が浅井氏を滅ぼし、兄達も戦死したことから還俗して海北家の再興を目指したが、関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に画才を認められ、その後画業に専念しました。晩年に南宋(中国)の画家・梁楷(りょうかい)・玉澗(ぎょくかん)などの水墨画に影響を受け、独自の気迫と情感に富む画風を完成させました。海北友松は建仁寺本坊の大方丈障壁画(重要文化財)などを制作しました。なお海北友松は1615年(慶長20年)6月27日に亡くなりました。
大徳寺見どころ

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