大徳寺方丈・大徳寺見どころ

●大徳寺方丈は1909年(明治42年)4月5日に国の重要文化財、1957年(昭和32年)6月18日に国宝に指定されました。
●大徳寺方丈は江戸時代前期の1635年(寛永12年)に大徳寺第48世・一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の参徒で、豪商・後藤益勝(ごとうますかつ)の寄進により、大徳寺開基である大燈国師(だいとうこくし)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の300年遠忌を記念して再建されました。
後藤益勝は後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)4代目です。後藤家は江戸時代に江戸幕府の御用達呉服師として仕え、後藤家の当主が代々縫殿助を名乗りました。初代は「呉服師由緒書」によると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が岡崎城を居城としていたころから呉服御用達を勤め、徳川家康側近として緒事御用を勤めた特権商人でした。後藤益勝は江戸時代前期の1627年(寛永4年)に縫殿助を名乗り、それ以降当主が代々縫殿助を名乗るようになりました。なお江戸時代前期の元和年間(1615年~1624年)に呉服師六軒仲間が形成され、後藤縫殿助は六軒仲間の筆頭になりました。
一般的に方丈は1丈(約3メートル)四方の部屋を意味し、禅宗寺院の住持(じゅうじ・住職)や長老の居室を指します。方丈は大乗仏教の経典「維摩経(ゆいまきょう)」にインドの在家仏徒・維摩居士(ゆいまこじ)が神通力で1丈四方の部屋に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)など8,000人の菩薩や仏弟子である500人の声聞(しょうもん)を招き入れたという故事に由来しています。そこから方丈に全宇宙が内在し、住職の居室を方丈というようになりました。方丈は堂頭(どうちょう)・堂上(どうじょう)・正堂(しょうどう)・函丈(かんじょう)とも言われています。なお「維摩経」は仏教伝来とともに伝わったとも言われ、聖徳太子(しょうとくたいし)の注釈書「維摩経義疏(三経義疏(さんぎょうぎしょ))」が残されています。
●大徳寺方丈は大徳寺開基である大燈国師・宗峰妙超が墓所となる寺院を建立する必要はないと遺言したことから一部が墓所・雲門庵(うんもんあん・開山堂)になっています。
宗峰妙超は鎌倉時代の1283年(弘安5年)1月7日に播磨(兵庫県)で生まれたと言われています。11歳で兵庫・書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)に入り、戒信律師から天台宗(てんだいしゅう)を学び、その後禅宗に転じ、鎌倉・万寿寺(まんじゅじ)で高峰顕日(こうほうけんにち)に師事し、鎌倉・建長寺(けんちょうじ)の南浦紹明( なんぽじょうみょう )に参禅し、1307年(徳治2年)に師・南浦紹明から印可を得ました。1309年(延慶2年)に京都に上り、東山の雲居庵(うんごあん)に隠棲しました。1315年(正和4年)に播磨国守護で、赤松氏4代当主・赤松円心(あかまつえんしん)の帰依を受け、紫野に大徳寺の前身である小堂・大徳庵を建立しました。1325年(正中2年)に第95代・花園天皇から帰依を受けて大徳寺を祈願所とする院宣が発せられ、1336年(建武3年)頃に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇から大徳寺の下総国葛西御厨の替地として宗峰妙超ゆかりの地である播磨国浦上庄が寄進されました。ちなみに花園法皇には師とすべき禅僧を推挙したり、花園の離宮を禅寺とする際に山号・寺号を正法山・妙心寺(みょうしんじ)と命名したりしています。なお宗峰妙超は1338年(延元2年・建武4年)1月13日に亡くなりました。
大徳寺見どころ

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