大徳寺方丈庭園・大徳寺見どころ

大徳寺方丈庭園

●大徳寺方丈庭園は特別名勝です。
●大徳寺方丈庭園は枯山水式庭園で、方丈の前に広がる南庭と方丈の東にある東庭に分けられます。東庭は江戸時代初期に小堀遠州(こぼりえんしゅう)、南庭は1636年(寛永13年)に大徳寺169世・天佑紹杲(てんゆうじょうこう)が作庭したとも言われています。南庭は白砂敷きで、土塀に沿って石や樹木を配置が配置され、中央に勅使門が建立されています。東庭は二段の刈込に沿って大小の石組が配置され、かつて鴨川・比叡山を借景にしていました。
小堀遠州(小堀政一(こぼりまさかず))は安土桃山時代の1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次(こぼりまさつぐ)と近江国佐和山城主・磯野員昌(いそのかずまさ)の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって伏見に移り、千利休(せんのりきゅう)とともに茶の湯を大成した茶人で、大名・古田織部(ふるたおりべ)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満(れいぜいためみつ)に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の功によって父・小堀正次が備中松山城を賜りました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。また江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の茶道師範にもなりました。1619年(元和5年)に近江小室藩に移封され、1624年(元和9年)に伏見奉行になり、1647年(正保4年)に伏見奉行屋敷で亡くなりました。
天佑紹杲は安土桃山時代の1586年(天正14年)に近江国で生まれました。美濃部氏(菅原氏)の一族とも言われています。大徳寺134世・万江宗程(ばんこうそうてい・萬江宗程)に師事し、その後その法を嗣ぎ、江戸時代前期の1625年(寛永2年)に大徳寺169世になりました。第108代・後水尾天皇から号・仏海祖燈禅師も賜りました。1628年(寛永5年)に織田信長(おだのぶなが)の次男で、大和宇陀松山藩初代藩主・織田信雄(おだのぶかつ)の菩提寺である長泉山徳源寺(とくげんじ)の開山になりました。天佑紹杲は墨跡で名を残し、たくあん漬け(沢庵漬け)を考案したとも言われる大徳寺154世・沢庵宗彭(たくあんそうほう)と親しかったとも言われています。なお天佑紹杲は江戸時代前期の1666年(寛文6年)10月19日に亡くなりました。
枯山水は池や遣水(やりみず)などの水を用いず、地形や石・砂礫(されき)などで山水の風景を表現する庭園様式です。枯山水は水がない庭で、石で滝、白砂で水などを表現する石組みを主体とし、植物が用いられてもごく僅かです。枯山水は中国の庭園や中国の宋(そう)・明(みん)の山水画(破墨山水(はぼくさんすい))などの影響を受け、南北朝時代(1336年~1392年)から室町時代(1336年~1573年)に禅宗寺院を中心に発達しました。禅宗寺院では方丈前庭などに多く作庭されました。枯山水は最初実景の写実的な模写が多かったが、次第に象徴化・抽象化が進み、石の配列による空間構成の美が重視されるようになった。枯山水は仮山水(かさんすい)・故山水(ふるさんすい)・乾泉水(あらせんすい)・涸山水(かれさんすい)などとも言われています。
大徳寺見どころ

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