大徳寺梶井門・大徳寺見どころ

大徳寺梶井門

●大徳寺梶井門は梶井門跡(かじいもんぜき)とも言われた三千院(さんぜんいん)の門として建立されました。三千院は鎌倉時代後期の1331年(元弘元年)に大徳寺南側にあった第53代・淳和天皇の離宮・雲林院(うんりんいん)に移ったが、室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火で焼失し、大原の政所(まんどころ)が本坊になりました。梶井門跡は1698年(元禄11年)に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)から京都御所周辺の公家町内に寺地を与えられました。なお大徳寺梶井門はかつて開いていたが、現在閉じられていることから「開けずの門」とも言われています。
三千院は奈良時代末期の788年(延暦7年)に天台宗(てんだいしゅう)の開祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を創建し、延暦年間(782年~806年)に比叡山東塔南谷の山梨の大木の下に一宇・円融房(えんにゅうぼう)を構え、自作の薬師如来像を本尊として安置したのが起源と言われています。860年(貞観2年)に承雲和尚(じょううんおしょう)が伝教大師・最澄作の薬師如来像を安置する伽藍を建立して円融院(えんにゅういん)と称したとも言われています。平安時代前期に第3代天台座主の慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)に引き継がれ、平安時代後期の1118年(元永元年)に第73代・堀河天皇の皇子・最雲法親王(さいうんほっしんのう)が入寺して以来、皇子・皇族が入寺して住持する宮門跡になりました。その後比叡山内から近江坂本に移り、1232年(貞永元年)の火災から京都・洛中で度々移り、名称も梨下房・円徳院・梨下門跡・梶井門跡と改めなした。1871年(明治4年)に大原の政所(まんどころ)を本坊と定め、名称を三千院(三千院門跡)に改めました。
●大徳寺梶井門は切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
大徳寺見どころ

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