大徳寺唐門(日暮門)・大徳寺見どころ(修学旅行)

●大徳寺唐門(日暮門)は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1952年(昭和27年)3月29日に国宝に指定されました。
●大徳寺唐門(日暮門)は安土桃山時代(1573年~1614年)に建てられました。大徳寺唐門はかつて関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造営した聚楽第(じゅらくてい)に建てられたが、その後越後国村上藩主・村上忠勝(むらかみただかつ)が譲り受け、大徳寺の塔頭・大慈院(だいじいん)に通じる通りに移され、1886年(明治19年)に明智門(あけちもん)が南禅寺(なんぜんじ)の塔頭・金地院(こんちいん)に売却されると明智門が建立されていた現在の大徳寺の方丈前に移されました。
聚楽第は安土桃山時代の1585年(天正13年)に関白に就任した豊臣秀吉(とよとみひでよし)が政庁兼邸宅とする為、1586年(天正14年)2月に着工し、翌1587年(天正15年)9月に完成し、豊臣秀吉が二条第(妙顕寺城(みょうけんじ))から移りました。1588年(天正16年)に第107代・後陽成天皇が行幸しました。1591年(天正19年)12月に豊臣秀吉が甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に氏長者(家督)と関白職を譲ると豊臣秀次の邸宅になり、翌1592年(天正20年)1月にも第107代・後陽成天皇が再度行幸しました。1593年(文禄2年)8月に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、1595年(文禄4年)7月に豊臣秀吉が豊臣秀次を高野山に追放して切腹し、翌8月から豊臣秀吉が聚楽第を徹底的に破却し、建物の一部が伏見城に移されました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
●大徳寺唐門は随所に龍・鯉などの彫刻があり、日が暮れるまで見続けることから日暮門(ひぐらしもん)とも言われています。大徳寺唐門は西本願寺(にしほんがんじ)唐門・豊国神社(とよくにじんじゃ)唐門とともに桃山の三唐門と言われています。
一般的に唐門は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根に丸みをつけて造形した唐破風(からはふ)がついた門です。唐門は豪華な彫刻が施されたものは向唐門(むこうからもん)、唐破風が妻にある簡素なものは平唐門(ひららもん)と言われています。唐門は平安時代後期に見られるようになり、桃山時代が隆盛期と言われています。
大徳寺見どころ

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